LOTUS STUDIO BLOG
これから何が起こるか。我々は何をすればよいのか。
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自分は成人した子供を持つ親世代に属するのだが、同年代の人と会ったり、電話で話したりするたびに出る話題が「ひきこもり」に関するものだ。
また「ひきこもり」にまで至らなくても、精神を病んでいる人のなんと多いことだろうか。
あっちにも、こっちにも、身内にも。


しかし「ひきこもり」は、何も若い人だけの専売特許というわけではない。
中高年の「ひきこもり」も、けっこう居るのだ。
かくいう自分も、鬱病で5年ほど苦しんだ。(でも性格なのか、ひきこもらなかったがね)


社会に出るのが怖い、人と会うのが怖い。
この気持ちもよ~く解る。
自分も10代後半から20代にかけては、まったく対処できなかった。
でも自分は、その「苦しみからなんとか逃れたい、フツーの人になりたい」と、チャレンジする方を選んだ。
そして今がある。


身も凍るような恐怖体験の最初は、やっぱり映画だった。
東宝怪奇特撮シリーズ『マタンゴ』(1963年)。

マタンゴ

無人島に漂着した若者たちが、空腹のあまり群生しているキノコを食べ、次々とキノコ人間マタンゴに変身していく。
映画のラスト、運良く帰還を果たした一人の生き残りの男が、その恐怖体験を取調室で語っている。
その後ろ姿からカメラが男の前に回り込むと、ギエーッ、男の顔の半分がすでにマタンゴになっている。
ぞぞぞーっ。
今でも思い出すと恐怖が甦るのだが、当時少年だった僕は、半年ほど夜眠るのが怖かった。


このころの東宝怪奇特撮シリーズは、出色のホラー映画ばかりで、『ガス人間第1号』(1960年)の土屋嘉男の青白い顔とか、『美女と液体人間』(1958)のドロドロも怖かったなー。
成人してから、コマ劇場地下にあったコマ東宝で、これらの東宝怪奇特撮シリーズの連続上映があり、見続けたことがあったけど、どういうわけかこれが怖くないんだ。
『マタンゴ』も、キノコ人間の作り物に目がいってしまい、あんまり怖くはない。
ところが、それから半年もすると、子供時代の「『マタンゴ』は怖かったなー」という恐怖体験がまた甦って来るのだ。
結局、大人になって追体験しても、既に別物と認識してしまい、原初的な恐怖感は払拭されないということみたいだ。
不思議だなー。


また昭和30年代は「原爆」の恐怖が表に出始めた頃でもあった。
『ゴジラ』もそうだし、『美女と液体人間』もそうだし、「放射能」というものが人間を変容させてしまうということが「恐怖」としてあったのだ。
第五福竜丸のビキニ環礁での被爆事件が起きたのが1954年。自分が生まれた年である。『ゴジラ』はこれをネタに作られ、30年代は米ソの水爆開発が加速した。
東京オリンピックが1964年。これでテレビが普及し、原爆のケロイドの映像が流されるようになった。
小学生だった僕らは、原爆と水爆はどう違うかといったことを、『少年サンデー』や『少年マガジン』のグラビア特集から仕入れ、情報交換をした。


これらの体験を通して、「恐怖の本質」とは何かということを自分は知ったのである。
結局、「恐怖の本質」とは「自分が変容してしまうこと」なのである。それも悪い方に。


一方で、人は「幸福になりたい」と願う。
それも「変化/変容」には違いないのだが、その機会が訪れたとして、その後、どう転ぶかは解らない。
そこで、悪い方に転ぶことを恐れる人は、変化の機会そのものを避けるようになって行く。
卑近な例は「結婚」だ。
「結婚」など弾みでするものなのに、「結婚後」を心配する人は、心配のあまり、どうしても結婚に踏み切れない。
そしてズルズルとトシを重ねて行く。
これが「保守的態度」であり、それが極端に進んだ病理が「ひきこもり」だ。
「保守性」とは「変化/変容」への恐怖である。


今まで大切にして来た自分、および自分の生活状況が、ある日を境に変わってしまう。
これは、環境の変化でも起きるし、他者との接触でも起きる。
他者と接触することは、その人の影響を陰に陽に受けるので、そこから自分が変わらざるを得なくなる。それがもの凄く怖い。
だから、自己防衛本能の強過ぎる人は、環境変化に遭わないように、他者と会わないように、隠遁して暮らすことになる。
また、そこまで行かなくても、自分が変化に晒された恐怖を、周囲の環境のせいにしたり、他者のせいにしたりして、真正面から受け止めること無く、逃げながら生きることになる。


しかし、「変化」というものはどんなにあらがっても避けられない。釈迦が「諸行無常」(常なるものは何もない)と言った通りである。
どんなに若くあろうとしても、日いちにち、死に向かって老化していくことは避けられない。


だとすれば、
「変化/変容」から逃げるのではなく、
むしろ「変化/変容」を積極的に演出し、コントロールする術を身につけた方がいい。
それが「恐怖」から逃れる最大のポイントだ。


そこで、
「変化」を受け入れる、更には「変化」を愉しむ、という心境に自分がなっていくことが大切だ。
そうすれば、世界が違って見えて来る。
「トシをとるのがイヤだなー」ではなく、「トシをとるのが愉しみだなー」に変えて行く。
カッコいい老人、老婆を目指せばよい。
それによって、人生が変わる。


もちろん、一足飛びにはその心境に到達出来ない。段階が必要だ。


1)先ずは『諸行無常』(変化は避けられない)という道理を知ること。
2)その上で、この先たとえ悪い変化になったとしても、受け止めること。
(「人間万事塞翁が馬」の例えにもあるように、何が「悪いこと」なのかは表面的には解らないし、どのような体験であっても、人はそれを糧にすることができる)
3)そういう覚悟ができたら、「変化/変容」の機会を逃さないこと。
(保守的な人というのは、どんな誘いも、あれこれ理由をつけて断わるものだ。そうはならないこと。つまらない人間だな。)
4)「変化/変容」を好む人とだけ付き合い、真似をすること。
5)自分から、「変化/変容」を仕掛けていくこと。そして結果を受容すること。(2に戻る)


「ひきこもり」の人がいたら、教えてあげてくださいな。
追記


子供の時にやっぱり『マタンゴ』を観たという人から連絡があって、その人は「エロティックだった」というので、思い出した。
確かにエロティックだったのである。
きのこの森の中で、手が半分くらいマタンゴに置き換わった女性が、さもおいしそうにマタンゴを食べ続ける描写があって、それを強烈に覚えている。
マタンゴは、マッシュルームの一部が強力な幻覚作用を持つのと一緒で、麻薬のような作用があるのだ。
お腹が空いても食べるのを我慢し続ける人と、たとえマタンゴに変化してもその麻薬的な誘惑に勝てない人と、グループが別れてしまうのだ。
そして、後者は「大丈夫よ。一線を踏み越えてしまえば。こんなに素晴らしい世界はないのよ」と言って、前者を誘うのである。


ということは、「悪い変化」の方向に、「快感」を見出す性質も人にはあるということだ。
「快感」原則の方が、「悪い変化」よりも勝ってしまうという、一種の破滅願望があるんだな。


生身の女はこわい。接触して、自己が破壊されるかも知れないから。それよりはアニメのキャラの方がいい。
という人と、
破壊されてもいいから、生身の女と接したい、という人に別れるんだな。
それが結局、エロティックということなんでしょう。


いま気がついたけど、なんで『マタンゴ』が自分を魅了したのか。
きっとそこには、人間の本質が、テーマとして描かれていたからなんでしょうね。
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