LOTUS STUDIO BLOG
これから何が起こるか。我々は何をすればよいのか。
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知人から、次のような投稿をいただいたので全文掲載します。
これを貰ったのは随分前だったのですが、転載のタイミングを逸してしまいました。(許可はとってあります)
転載は忘れた頃にやってくる、なーんちゃって。


ここに書かれてあることに、僕は全面的にagreeです。
この和歌山の太地町なんですが、その後オーストラリアの姉妹都市の住民が、かつて移民した太地町出身者の墓を破壊するまでにエスカレート。
いくらなんでも、お墓をぶっ壊すなんて‥‥。
小生も、西洋人というか、アングロサクソンというか、キリスト教文化圏の人というか(括りはあいまいですが)、いろんなところで根本的な思想の違いを感じます。
今度じっくり検討してみたいと思います。(なお、太地町と豪ブルーム市との関係は、修復に向かったようです)
http://www.afpbb.com/article/environment-science-it/environment/2653377/4767223


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以下、知人よりの投稿


先日、NHKで和歌山の太地町で、伝統的なクジラの「追い込み漁」をやっている漁師さんたちと、シーシェパードの活動家たちとの闘いをドキュメンタリーでやっていましたが、西欧の自然保護活動家の人たちって、本当に自然のことを知らないんだなぁ~って感心させられました。


っていうより、自然なんて、どうでもいいんですよね。
もともと、自然がわからない。
概念としての言語的な「自然」を、みずからの思想として、標的にしやすい対象を選んで、侵攻をかけていく……昔ながらの、西欧人のやり方です。
スペイン、ポルトガル~大航海時代から、全然変わっていないんですね。
思想をもつということは、攻撃することにつながりやすいんです。


思想を押しつけて、侵略を推し進めるところの、その根底には、人間には「争う」と云うことを、なかなか止めようとしない、本能にも近い心的構造があるんだなぁ~といつも思うんです。
たとえ、physicalな力(暴力)を用いなくとも、コトバや、妨害活動のような行為も、やはり「争う心」の表れです。
人間って、とくに西欧人は伝統的に、自分の「考え」を主張するとき、あるいはその主張に基づいて行動するとき、往々にして、誰かと「争う」ことをヨシとするんですよね。
論争であれ、討論であれ、裁判であれ、やはり「争う」ことです。


なぜ、争うの?
「相手」が、こちらの「何か」を邪魔している、あるいは、阻害している、と判断されるからです。
もちろん、その「相手」とは、往々にして、「人」でない場合もあります。
動物や、自然界に生息する諸生物や、自然現象そのものであったりする。
あるいは、社会や、常識や、社会的な慣習であったりもする。
あるいはまた、それは「自分」であったりもする。


たとえば、自分の中の「自然」と争う(闘う)ことで、心身に於ける病気がその信号となって現れることも往々にしてある。
そして、みずからの「思想」に抵抗するだろうと見なされる「ものごと」を行う人たち。
つまり、異分子です。
ここに、侵攻・侵略・攻撃の動機が発動します。
異分子は、排除する。


ある地域に生息する生物、人や動物、鳥類、なんでもいいです。
その生物が、そこの土地で「営み」を続けて行こうとします。
生物は、いろいろなことを試みながら、食物を獲得していきます。
和歌山県の太平洋岸に生息してきた人たちが、クジラをつかまえて、食べたり、油をつかったり、その「営み」に供してきた。
これが「自然」です。


クジラやイルカは、知的に高度な生き物であり、可哀相であり、その愛らしい動物を獲って食べる野蛮人など、ゆるせない……という、きわめて人工的な思想で、「自然保護」を訴える人たちが、きわめて人為的な行為である妨害活動(攻撃)をしかけている。
これが「人工」です。


クジラを食べるのは、食文化だ……という人もいますが、文化という言葉だけで安易にくくられるのもちょっとなぁ~って思います。
人は、往々にして、文化や文明という言葉を好むようです。
この二つの言葉は、人間が、何かの行為をしつづけた暁に展開してくる、人間の、人間による、人間のための価値観というような匂いがします。
しかもそれは、進歩した、あるいは進化した人間にのみ具現が可能な、高度な社会や価値観として連想されるものではあります。
近現代の用語でいうところの「自然」とは、やはり一線を画するコトバでもあるようですよね。
でもやっぱり、文化や文明という言葉が提示するイメージは、ごく限られた狭いフィールドにおいて具現するもの、という感じがします。
つまり、普遍的に、どこにでも存在するところのものでもなさそうなのです。
つまり、「人為的」「人工的」という言葉と、どこかしら兄弟のようでもあります。
人工的、人為的、文化、文明という言葉に、どことなくぼくが感ずるチャチな感覚は、ひるがえって考えると、自然という普遍的な存在と無意識のうちで対比することによって生じる「感じ」のようなものかもしれないですね。
自然という言葉自体があまり好きではないですが、西郷さんのように「天」という言葉を用いるとしたら、天に較べたら、小さな存在である人間が、背伸びしてこしらえたちっぽけなもの……という感覚が、文化や文明という言葉によって喚起されるのかもしれないなぁと思うんです。
昭和の高度成長期に登場した「文化包丁」や「文化住宅」という言葉のもつ、すごくチャチな感じ、軽薄な響きは、このような人間の浅ましさが垣間見えることに由来するのかもしれないですね。
この文明人の浅ましさは、便利主義に結びついています。
便利がいちばん。これはもともと西欧人の専売特許であったと思います。
しばしば、合理主義などと呼ばれてきた。

でも、西欧人の中には、自己反省からか、この合理主義や、近代文明、機械文明を否定して、自然なるものに回帰しよう……と訴える人びとも現れてきた。
これはいいことだと思います。
自然を讃嘆する文学や、文化人類学など、自然や原始的なものに価値を見出すことに、喜びを感じる人たちが現れてきたんですから。
でもやっぱり、多くの西欧人にとって「自然」っていうのは「思想」なんですよね。

「食文化」という言葉でいうなら、三島由起夫が(文化防衛論で)警告した、減退する「本物の文化」という、「菊と刀」的な、それこそクジラだって、人間だって食べちゃうぞ的な、そういう生殺与奪のダイナミックな表現でないと、一般的な、形骸化した死んだ文化のような意味合いでとらえられると、あのクジラ漁はわからないでしょう。

サルを食べる人たちもいるし、トカゲやワニを食べる人たちもいます。
ウシをいっぱい育てて食べている人もいるし、昆虫を食べている人もいます。
果物ばかり食べる人たちもいる。
ものを「食べる」人たちを、いきおい、否定できるでしょうか。
シーシェパードの人たちは、
「ここに10万円ある。金をやるから、クジラをとるな」
と脅かしていました。
まぁあれは、彼らのドキュメンタリーを撮るための(漁師たちを怒らせる)演出なんでしょうけれども、「金のために、クジラを獲る」という発想そのものが、機械文明的な、チャチな文化人の発想ですね。
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