LOTUS STUDIO BLOG
これから何が起こるか。我々は何をすればよいのか。
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の子神聖かまってちゃん」のことを、オジさん(やや初老)は知らなかったのだが、NHKのドキュメンタリーで初めて知った。
の子」はネット世代のカリスマということになっているらしが、噂に違わぬ、強烈な表現者であった。
ちょっと、「いっちゃってる」という感じもある。


そこから、オジさんはどうしても、「尾崎豊」を思わずにはいられなかった。
尾崎豊」も、私と同世代というわけではなく、一世代ヤング(死語かな?)で、だから「の子神聖かまってちゃん」は二世代ヤングということになる。


の子」がネット世代のカリスマというわけは、ネットライブで火がついたことによる。カメラとマイクをセットしたパソコンの前でライブ演奏をし、ニコ動の、生の書き込みを見ながらトークをするというスタイルだ。ホールではないのだが、双方向にメッセージが行き交うことで、それとほぼ同じことを実現してしまう。そこに、ネットの向こう側にいるオーディエンスと強い一体感が生じる。


社会にプロテストするメッセージソングは、いつの時代にもあって、それが、時代時代でスタイルを変えながら、時々、強烈な表現者を生み出して行く。「の子」は、そこで、模倣ではない新しいスタイルを生み出したのだ。Youtube のプロモーションビデオも、見方によっては「ド素人」で片付けられてしまうかもしれないが、オジさんたちが70年代くらいに見た(いわゆるフラワーチルドレンの)感じがあって、懐かしいような、新鮮さがある。


ついでにいうと、プロテスト・ソングは、「ロック系」と「やさしさ系」があるのよね。
これが、時代変化の中で交互に出て来る。
でも「ロック系」は、大メジャーにはなれないのよね。(やっぱりロックだからさ、不良だからさ)
大衆ウケするのは、いつも「やさしさ系」なんだよね。
でもオジさんは、「やさしさ系」は嫌いだね。生理的に。


「やさしさ系」というのは、反抗なんかしても、この世の腐った仕組みを変えるのはどだい不可能なんだから、自分たちの「やさしい愛」の世界で生きようよ、ってことなんだけど、オジさんはイヤだね。
まあ尾崎豊も、結局そっちに行っちゃったんだけど‥‥。尾崎豊は、両方にまたがっているのかな?
たまに下北沢にインディーズのライブを聴きに行く(どこへ行っても自分がいちばん年寄りで恥ずかしい)んですが、「つまんないなー」と思うのは、若い人が歌っている世界の大きさが、半径3メートルくらいしかないのね。


自分ちのおじいさんとおばあさんがどうしたこうしたとか、日記にこういうこと書いたとか、空を見上げて雲の形がどうだったとか、ホットケーキのシロップが甘くてすてきだったとか。
それもいいんだけど、先ずは「反抗」しなくちゃ。
「バカヤロー」って拳を振り上げなくっちゃ。
世界では、若者たちが「反抗」で盛り上がっているのに、日本の若者の、この去勢のされ方って、異常な感じがするんだ。


ところで、オジさんが気になったのは、このNHKの、ドキュメンタリーの捉え方であった。
<ひきこもり生活だった、ネット世代のカリスマロックシンガーが、メジャーになっていく過程で、いかに社会と折り合いをつけていくか>というのが、作品の主題になっている。
しかしオジさんは、「違うだろうがぁ!」と、腹立たしく思ったのだ。


それはあまりにも紋切り型であって、「ひきこもりの代表」である「の子」が、「どう社会に入っていくか」という視点で作品を描いてしまったら、表現者としての「の子」のキャラクターに、「無礼」だと思うのだ。
(早い話が、「の子」の表現部分については、あんまり関心がないんだよ、と言っているも同然だ)
「ひきこもり」というのは、単なる時代の言葉であって、昔っから、表現したい若者は、時代と折り合いが付けられなかったのだ。
だから、「ひきこもりの代表が、どう社会とコミットしていくか」という切り口は、民放的というか、ウケ狙いというか、底が浅いと言わざるを得ない。


表現者としての「の子」の苦悩というのは、「どう社会とコミットしていくか」ではなく、「自己の成長」にあると、オジさんは思う。
ネットの中で「共感」を得て、「の子と神聖かまってちゃん」がファンに受け入れられていった場合、「の子」がその世界から「成長」したときには、多くのファンにとってそれが「裏切り」に感じられてしまう。
そしてこれは、「表現者」と「ファン」の関係においては、いつの時代でも、誰にでも、必ず起こることなのだ。


80年代はアイドルの時代だったが、アイドル量産の時代には、他者と区別するために、そのアイドルに新キャラクターを付与する。歌だけではなく、衣装や髪型までも計算して。それで一旦ファンを獲得したら、ファンはそのイメージをどこまでも求めるし、アイドルの方もそのイメージを守ろうとする。
しかし、そうはいかない。時は流れて、アイドルもファンも、歳をとっていってしまうからだ。こうして、一つのアイドルが消費されて終わる。


結論を言えば、「表現者」と「ファン」の関係においては、「表現者」は「ファン」を裏切り続け、一歩先を行く「成長」を見せ続けていくしかないのだ。
プロレスを見習え! と言いたい。
そして、それが出来た「表現者」のみが、長続きする。
「の子」の正念場は、「そ子」にあると思う。(すみません。ダジャレです)


しかし、最近NHKのドキュメンタリーを見ていて思うのは、ディレクターが未熟だということ。
この「の子と神聖かまってちゃん」のドキュメンタリーも、たぶん、年齢が近いからという理由で、若いお姉ちゃんにやらせたと思うのだが、ドキュメンタリーってものを全然解ってないと思う。
ただ、面白そうな素材を見つけて、インタビューして、それをつなげればドキュメンタリーが完成すると思っていやしないだろうか。


先日も、韓国に渡ったプロ野球人のドキュメンタリーがあって見ていたら、ディレクターが「あなたにとって○○とはなんですか?」を連発するので、テレビに向かって思わず「バカヤロー、いい加減にしろ!」と叫んだのであった。そんな聞き方をすれば、相手は「全てです」と答えるのは決まっているし、だいいち、それを引き出すためにドキュメンタリーを撮っているのではないか。まったく何も解っていない、未熟なディレクターだと思う。


ドキュメンタリーとは、素材を通して、「自分を語る」ことだ。その「自分」がないものに、ドキュメンタリーは撮れない。
案の定、「の子」に「バカ!」と、このお姉ちゃんは罵られてしまうのだが、オジさんも見ていて、「なんてバカな質問しているんだろう」と思ったね。
「作曲しているところを撮らせてもらえませんか?」
ドキュメンタリーは現実を切り取るものじゃないんだ。カメラが入ったとたん、現実は変容してしまうんだ。それを前提として、対象と対決するのがドキュメンタリー。早い話が、筋書きのない劇映画。
もし、このお姉ちゃんディレクターがこのブログを読んだら、激しく傷つくと思うけど、まあ「愛の無知」、間違えました「愛の鞭」だと思ってください。


番組プロデューサーは、切り口も、ディレクターの起用も間違えているとオジさんは思うね。
もしオジさんがプロデューサーだったら、76歳の若松孝二に「の子」を撮らせるね。
それで、対決させるね。
それが、ドキュメンタリーってもんでしょうが。
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