LOTUS STUDIO BLOG
これから何が起こるか。我々は何をすればよいのか。
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昨年11月、在京テレビキー局各社の中間発表で、日本テレビとテレビ東京の赤字転落が伝えられた。赤字額は、それぞれ12億円と3億円。フジテレビは番組制作費の圧縮や通販子会社の業績に支えられかろうじて最終利益を確保。テレビ朝日は売上高は0.4%の増収だったが、経常利益は25.6%の減。TBSもグループ全体は商業施設や不動産関連の売上によって12.3%増となったものの、広告収入はテレビが前年比マイナス6.9%、ラジオが同7.7%にまで落ち込んだ。

これらはみな、リーマンショック以降のスポット広告の減少が大きかったためと説明されてはいる。しかし自分はそれだけとは思わない。この要因はもっと構造的なもの、根本的なものが背景にある。要は、「民放テレビ」というビジネスモデルが、もう時代変化にそぐわなくなってきているということなのだ。

自分の周辺にいる人々に「最近テレビ見る?」と聞いてみると、大抵は「ほとんど見ない」という答えが返ってくる。これが若い人もそうで、今どきの若者がクルマに関心がないのと同じ感覚で、テレビにも関心がないのである。自分もそれほど見るほうではないのだが、これでも結構見ている部類に入るのかもしれない、と思えてきた。

民放テレビ局の収益源は、いうまでもなく広告収入である。テレビはマス媒体としての広告効果がとりわけ大きかったために、長らく広告収益の王者として君臨してきた。マスに商品を売りたい企業と、マスコミの代表であるテレビとは、互いにいい関係が築けていたわけである。

また広告には、「AIDMAの法則」と称する古典的理論があって、最後のAction(購買行動)を起こさせるには入り口のAttention(本来は“気づき”だが、普通“認知”と訳される)を上げることが重要とされてきた。そのためテレビにおいては、Attentionの指標である「視聴率」が、常に重視されるようになっていった。

このことは、テレビの黄金期にあっては、高視聴率が取れる番組→スポンサーがどんどん集まる→広告収入が増える→番組制作に多くのお金が掛けられる→さらに高視聴率が取れる、という好循環を生み出していった。

しかし今は、そういう訳にはいかない。第一の理由は「マス」が成立する市場が限られた分野になってきているためである。これは実際にテレビの広告主の変化を見ていれば解る。今は電気、ガス、通信といったインフラ産業か、飲料や洗剤や健康食品といったコモディティ商品にスポンサーが限られて来ているのだ。

これがちょっと前なら、カレーやインスタントラーメン、チョコレート、ガム、アイスクリームといった食品関係のCMがガンガン流れていた。しかし最近見なくなったのは、食品産業が元々売上規模が小さいことと、ライフスタイル化によって、マスであることの価値がなくなってしまったためだ。

例えば、自分が子供だった頃には不二家のキャンディーや明治製菓のチョコレートは大変な憧れだったが、今の時代にこれをお遣い物として持っていったとしたら、きっとバカにされてしまうだろう。それよりは自由が丘の○○というケーキ屋のケーキとか、伊勢丹のデパ地下の○○とか、マイナーなものの方がより価値あるものにとって変わってしまった。

同様のことは、食品分野だけでなく、ライフスタイル化しやすい分野でみな起こっている。アパレルファッションが、原則テレビ広告をしないのは、最初から、マスであってはならに商品であるからだ。みんなが同じものを着てしまっては、ファッションとしての価値はない。

ただし例外がある。ユニクロはテレビ広告を積極的に行った。これは画期的なことであったが、同時にそれまでのアパレルファッションの価値構造というものを、根底から破壊してしまった。ユニクロは「ファッションってこんなものでいいんだ」という概念を提示するだけではなく、「今まで、見えない価値に高い金を払っていたのは、バカらしくないか?」と人々を目覚めさせてしまったのだ。

さて第二には、「知っている」ことと「買う」ことが分離してしまったということがある。「AIDMAの法則」で言うように、確かに、物を「買う」前にはその商品を「知る」という段階がある。それはその通りだ。しかしそれは、「買う」前には自動的に「知っている」ということであって、「知らせ」れば「買う」ということを保証してくれるものではない。

現代では「知って」いても「買わない」ことが多すぎるのである。たとえばクルマである。テレビであんなにコマーシャルを見るが、私自身はTVCMを見てクルマを「買った」ということが一度もない。いやクルマだけではない。テレビ広告を見て何かを「買った」ということが、思い出す限り一度としてない。なぜか? 自分には必要がないものばかりだから。「知って」いても、いらないものはいらないのだ。別にみんなと同じ生活をしたいとも思わないのだ。それが現代である。

テレビの広告収入が減って、インターネット広告が伸びていることは事実である。また、HDに録画するようになってからCMがスキップされてしまうことが多くなったことも事実である。これらはみな既存メディアからすれば大変な脅威ではあろうが、インターネット広告の伸びというものも、テレビに比べればムダ打ちが少ないだろうという相対的優位性を語っているに過ぎない。本質的な問題は、あくまで「マス」市場という概念が限定的になってきていることと、「AIDMAの法則」が通用しなくなっているという2点にある。

テレビの一部の人は既にそのことに気が付いているとは思うが、それを自分で言ってしまってはヤブヘビで業界構造や秩序が崩壊してしまうので、今は黙っているだけなのだと思う。先月、NHKでテレビの未来を論じ合う視聴者参加型の討論会をやっていたのをたまたま観たのだが、視聴者側代表の意識とテレビ番組の提供者側の意識にはかなりの隔たりがあった。

簡単に言えば、視聴者側はすでに「テレビはメディアの中のone of them」という意識しかないのに対して、テレビ側は「テレビは未だマスコミの中の王者である。これからも王者であり続けたい」と思っているのである。私はそのことに驚いた。「情報」という敏感なものを扱っていながら、実は普通の会社と同じような防衛本能中心で動いている、ということに軽いショックを受けた。まあ、当たり前といえば当たり前の話ではあるが‥‥。

2週間ほど前だったか、月間視聴率ベスト30というデータが新聞に載っていたので、内容を見てみたら、そのうちの12本はなんとNHKの番組であった。民放は、視聴率が取れないので、今や吉本とジャニーズ事務所とビートたけし頼みである。結果どの局も同じような番組ばかりになってしまい、今まで観ていた人もテレビから逃げ出し、視聴率はますます下がるという完全な悪循環状態に陥っている。

先のNHKの番組で、「さてこれからどうしたらいいか」という話になったときに、ゲストのジャーナリスト蔦信彦さんが「視聴質も考えなければいけない」と言われたのを聴いて、これにも驚いた。「視聴質」という話は20年以上も前からずっと言われ続けてきたわけであって、未だ実現しないというのは、もはや民放テレビというビジネス構造には自浄作用がない、ということを示しているのではないだろうか?

テレビは、これまでコンテンツ制作(メーカー)と配信(流通)が一体の事業モデルであった。しかしこの事業モデルは、もう時代に合っていないし続けていくには無理がある。映画はダメになり方が早かったので、既にメーカーと流通は分離している。テレビも遠からず、これが分離されていくであろう。そのときに、コンテンツに対する評価軸は激変し、今よりましなコンテンツ(逆もあるが)がどんどん登場するようになっていくであろう。すでにその兆しは多方面で現れている。
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