LOTUS STUDIO BLOG
これから何が起こるか。我々は何をすればよいのか。
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20代のころ、毎年暮れになると、僕は当時新宿紀伊国屋書店の裏手にあった「新宿ローヤル劇場」という映画館の座席に身を沈めていた。そこはアクション映画専門の名画座で、暮れになると、なぜか毎年のように『ダーティハリー』シリーズの特集が組まれていたからである。

冬になると畳が凍る、家賃1万5千円の掘っ立て小屋に住み、『おとうふ』のマコト君のようにフリーターをしていた僕は、街にジングルベルの音が聴こえるころになると、鬱屈した気分がどうにもたまらなくなって、地下にあったその劇場に一人潜り込んだのだった。そんなとき、ハリー・キャラハンがぶっ放す44マグナムは、当時の自分にピッタリの気分だったのだ。

ここで恥かしい写真をお目にかけまする。題して『猫と拳銃』。(猫ちゃんがちゃんと芝居してくれないのよね。それで猫ちゃんの顔が見えないの)
意味はない。そのまんま。22歳のころ、友人のY君の家で撮った写真だ。Y君はその後アニメのシナリオライターとなり、『ゲゲゲの鬼太郎』その他の脚本で活躍するようになった。

cats

対する僕は、現場で制作進行をやったり、廣木隆一監督の初期作品にシナリオを提供したりしたこともあったが、映画界ではどうにも喰っていくことが出来ずに、その後、コピーライター、SPプランナー、グラフィックデザイナー、マーケティング・コンサルタントと仕事を変えながら、今日まで喰い繋いできたのだった。

拳銃を持っているのにはワケがある。当時僕は『Gun』という雑誌を3年間ほど講読していた。別にマニアということではなかったが、日本映画やテレビのガンアクションの出鱈目ぶりに憤慨していて、ずっと研究をしていたのだった。この写真で持っているのは「ポリスパイソン357」である。さてトリガー(引き鉄)に指が掛かっていないのを見て貰いたい。

これは暴発を防ぐためにターゲットを補足するまでは指を掛けないのである。そして必ず天か地の方へ銃身を向けておく。ところが日本のガンアクションと来た日には、刑事が自動式拳銃(オートマティック)を使っている。(故障が怖いのでオートマティックは普通使わない)犯人を見つける前からトリガーに指を掛け水平に構えている。(上記の通り)走りながら、片手でぶっ放す。(当たるわけがない。止まって両手でしっかりホールドする。その構えに方には基本型が何種類かある)クイックローダーを持っていない。(蓮根式弾装に一度に弾を充填する器具)弾が切れると拳銃をその場に放り捨てる。(拾われたらどうするのヨ!)バキューーン!という音がする。(これは裕ちゃん時代に日活で作った音。実際はパン!)と、あまりにも出鱈目だったのである。(今もあんまり変わってないかな)

余談はそれくらいで、さてその『ダーティハリー』の1本目(1971年)を見たとき、僕はもの凄い衝撃を受けたのだ。ハリー・キャラハンのキャラクターもさることながら、それ以上に驚いたのは、犯人が変質者だったことである。スコルピオと呼ばれるその犯人は、「理由なき無差別殺人」を繰り返す男として設定されていたのだ。驚くなかれ今から37年前の話である。

ところが日本では、その4年後の1975年に制作された『新幹線大爆破』を見ても、町工場の経営に失敗した男が犯人、といったように犯行に至る理由がちゃんとあり、それも犯人の心情レベルにいかに迫るかが、映画の見所とされていたのだ。これは、黒澤明監督の『天国と地獄』(1963年)などでも同じである。

1970年代初頭に『ダーティハリー』が示した犯人像は当時のアメリカ社会の世相を映すものであったが、その延長が20年後の『羊たちの沈黙』(1991年)にまで続いている訳である。一方の日本では、渡哲也が主演した『誘拐』(1997年)においてもなお、『新幹線大爆破』と全く同様の、「理由ある犯人像」(ダム建設による村の水没という恨み)が描かれていたのだった。

この『誘拐』を観たとき、僕はまったく陳腐だと思った。1988年には宮崎勤幼女連続殺人事件が、1995年には社会を震撼させたあの「地下鉄サリン事件」が既に起こっていたのである。そして2001年には宅間守の附属池田小事件が起こる。言葉は悪いが、日本にもとうとう「理由なき無差別殺人」の時代がやってきたのか、と当時の僕は思った。

アメリカに遅れること20年。犯罪においても、日本はついにアメリカ並みになったのである。今や現実の事件の方が、フィクションを追い越しているのだ。
こうした、世の中を震撼させるような「理由なき無差別殺人」が一旦起こると、メディアは一斉にその「納得できる理由づけ」を求めて動く。そして、警視庁のOBや、元監察医や、犯罪心理学者や、時には推理小説家までを投入してその解説に当たらせる。

しかし、こうした「納得できる理由」探しという文脈は、それ自体がもう古いように思う。村上龍氏は、<世の中には変な奴が必ずいるのだから、こうした報道をすればするほど真似をする奴が出てくるかも解らない。そっちの方が心配だ>と言う。僕もその考えには賛成である。ワケを知りたいのは人の常だが、もう以前のような納得できる関連づけなどムリな犯罪が増えているのだ。

つまるところ、そうした犯罪が次々と起こり得る社会的背景が、アメリカ並みになってしまったということの、これは証左とは言えないだろうか。
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