LOTUS STUDIO BLOG
これから何が起こるか。我々は何をすればよいのか。
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第46回の衆議院議員選挙が12月4日に公示、16日に実施されます。
解散から一ヵ月しかないというのは、立候補者にとって非常に厳しいものがあるようですね。
おまけに小選挙区制ですから、一つの選挙区で一人しか当選できません。そうなると必然的に、知名度のある人や、政党支持率の高いところが選挙戦では有利になってきます。


今回の選挙では第三極の台頭ということが言われているのですが、選挙通に言わせると、小選挙区制のもとで議席を獲得するのは、単なるムードとは異なるしっかりした選挙戦術が必要とのこと。わずか一ヵ月の準備期間で第三極が表舞台に登場するのは、なかなか難しいようですよ。


と、最初に評論家のようなことを書いてしまいましたが、そんなことは私たちに今どうこうできるわけでもなく、この手の政局分析に心をくだいても仕方がありません。
それよりも問題は、一般庶民が今どう政治に関われるのか、ということです。
日本国は、一応民主主義国家ということになっているのですが、果たして本当に民主主義が日本国にあるのでしょうか?


「民主主義(democracy)」とは、一般の人々が国家権力に参加することを言います。
これと「議会制」とは、本来はまったく別の概念です。「議会制」のモデルとなったイギリスの上院が「貴族院」と呼ばれている(今日でも爵位を持つ人で構成される)ことをみても、「民主主義」とは別物であることがよく解るでしょう。


ところが私たちは、子供のころから「議会制民主主義」=「民主主義」という概念を植え付けられて育っています。
その結果、選挙制度で選ばれた代議士が政治を担うという制度に何の疑問を持たず、今日まで来ているのです。


しかし、本来の「一般の人々が国家権力に参加する」という意味からすれば、今の私たちが取り得る手段はそれほど多くありません。
国民が直接投票できる制度は、衆議院制度の際に同時に実施される「最高裁判所裁判官国民審査」と、「国民投票」しかありません。


「国民審査」はご承知のように形骸化していますし、「国民投票」は憲法改正の場合のみに制限され、これまで一度も実施されたことがありません。
よって、選挙のときに代議士を選ぶことでしか、「参加したつもり」にはなれないのです。後は、デモをするとか、暴動を起こすとか、市民的不服従を行うことでしか、政治に関わることができません。


では代議士による政治の根幹はいったい何になるのでしょうか?
これはとても簡単です。「公約」を守ることです。
「公約」を掲げて、その「公約」に対する賛同者を募り、当選する。当選したら、その「公約」を実行する。「公約」が実行できなければ、政党は下野し、代議士は次の選挙で落選する。
これが守られなければ、「議会制民主主義」など、全くの絵に描いた餅です。


ところがどうでしょう?
政権を握っても「公約」はちっとも守られない。
政党政治と言うけれども、たとえば消費税やTPPや防衛問題に関して、一つの政党の中にも真っ向対立する考えがあってまとめきれない。


そしていざ当選したら、政権獲得の目的のために、まったく意見を異なる政党とも連立を組んでしまう。(お若い方は知らないと思いますが、1994年にはなんと自民党と社会党が連立政権を組んだこともあるんですよ!)
これでは、選挙が大事といったところで、投票行為にどんな意味があるのか、本当に空しくなってしまいますね。


これからの政治が、日本国と日本国民にとって、非常に重大な意味をもたらすであろうことは疑いようもありません。
それなのに、日本には民主主義がない。
これから、いったいどなたが、どう日本を導いていくことになるのでしょうか?


●参考
2009年時の野田佳彦氏の街頭演説
http://www.youtube.com/watch?v=y-oG4PEPeGo
総理になった野田佳彦氏の2012年の弁明
http://www.youtube.com/watch?v=GW9en-eEthw&feature=fvwrel
実は「イギリスのルールはよく知らない」と発言
http://www.youtube.com/watch?v=kz6Ip-I5mjs&feature=related
岡田克也氏の2009年の街頭演説
http://www.youtube.com/watch?v=zCdjQCswXnQ


厚顔無恥な人でないと政治家になれないのか。それとも政治家という職業が人を厚顔無恥にしてしまうのか。私にはよく解りません。
今度の選挙でも、街頭演説などの発言は逐一録画しておくとよいようですね。それが、今の時代においては、政治に参加する有効な手段になりそうです。
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友人から、ソーシャルメディアに関する講演会があるので一緒に聞きにいかないか、と誘われました。
でも案内文の惹句を見たら、


・スティーブ・ジョブスの死と共に去ったパソコンの時代。
・2012年、ソーシャルメディアの夜明け。
・たった一つの”つぶやき”から生まれるシンデレラ・ストーリー。
・幸運の女神からの『いいね!』で変わる人生。


とあるのを読んで、私は遠慮しました。
こういう流行(はやり)ものを煽る話には、もう私はまったく興味が沸きません。「遅れている」と言われれば、その通りかもしれません。
でもどうなんでしょう? パソコンの時代が終わったとも思いませんし、ソーシャルメディアが、言うほど素晴らしいものだとも、私は思いません。


それに、世の中には、パソコンにすら触ったこともない人たちも大勢いて、そういう人たちだってちゃんと普通に生活をしています。
いまソーシャルメディアに関わらなければ、この先の人生が開かれないかのように言うのは、別の意味で、今という時代を解っていないのではないのかなぁと思います。


「ソーシャルメディア」という言葉を初めて聞いたのは2年前ですが、その時は「social」という言葉を「社会的」という意味だと早合点して、少し興奮しました。でも後になって、twitterやfacebookやmixiのことだと知ったときには、ガッカリしました。


ウィキペディアの定義を見ますと、<誰もが参加できるスケーラブルな情報発信技術を用いて、社会的インタラクションを通じて広がっていくように設計されたメディア>となっています。
でもこれだけでは解りにくいですね。


ポイントは、


マスメディアは多くの人に伝達可能だが、一方的であり、資本や規制による制約もあって誰もが情報発信できるわけではない。
一方、パーソナルメディアは、個人から個人への伝達手段に留まり、それ以上の広がりを持たなかった。
しかしソーシャルメディアは、個人の情報発信がマスメディアのように多くの人々に伝わる可能性を秘めている。


ということにあるようです。
それが「social」という言葉に被せられた意味のようです。


確かにその可能性の意義は大きく、中東革命で大きな役割を果たしたことをみても、これまでのマスコミ支配の構造を打ち破るインパクトがあると思います。
ところが、もちろん良いことばかりではありません。


第一の問題点は、情報発信元の信憑性が疑わしいということです。
中東のCNNと言われるアルジャジーラの放送を見ますと、シリア状勢やパレスチナ状勢を伝える際に、最近は携帯電話で撮影した映像が頻繁に使われるようになっています。でもどちらの側が撮影したのか、誰を撮っているのかも定かではありません。


映像など、最近では簡単に捏造できるわけですから、それを解像度の悪い携帯電話の素人撮影で見せて、そこにアナウンサーがコメントを被せるというスタイルをどこまで信じてよいか判りません。疑いなく観ていたら、アナウンサーの言葉を鵜呑みにするということになってしまいかねません。そして実際に、そういう虚偽の報道への誘導が行われていると私は考えています。


以前ですと、マスコミは必ず「裏」というものを取ったわけですが、それではソーシャルメディアのスピードに負けてしまいますので、今ではソーシャルメディアの後追いをするようになってしまいました。中国漁船衝突事件の際の映像も、出所が解ったのは、ネット上の動画をマスコミが取り上げて随分経ってからでしたよね。つまり、刺激的でさえあれば、「裏」などどうでもよくなってきているのです。


第二の問題点は、田原総一郎さんが最近になって仰っているのですが「twitterは結論しか言わない。途中がない。」ということです。田原総一郎さんは、当初は「twitterは面白い」と言っていたのです。ところが可能性を感じて使ってみた結果、「結論しか言わない。途中がない。」ということが解ったというのです。


これはどういうことかと言いますと、情報を精査したり、関連づけたり、分析したり、思索したりする「中間」がないということです。
ある事柄に関して、「賛成」か「反対」かといった単純な切り口で判断するだけになってしまう。そのいい例が、『いいね!』ボタンです。


何がいいのか、どこがいいのか、全く解らないけれども、ただ『いいね!』と言う。そしてその数を競う。
私はこの『いいね!』方式を、ちっとも「いいね」とは思いませんね。
こうして思考を単純化させた結果、第三の問題点として、ソーシャルメディアは「ネットいじめ」に非常に適したツールに成長してしまったのではないでしょうか?
「こいつ嫌い」「あれはダメ」とすぐに判断してコメントする。


マスメディアにしても、パーソナルメディアにしても、そしてソーシャルメディアにしても、結局はコンテンツ(内容)と、使う側のモラルの問題が問われるのだと思います。
ソーシャルメディアは、確かにマスコミの支配を破壊するインパクトを持っていると思います。けれども同時に、モラルも破壊するインパクトを持っていることを、私はとても危惧しています。
4年に一度行われるアメリカ合衆国大統領選挙。この時期が近づくと、日本のメディアは予備選挙の前の段階から、その動向をかなり詳しく伝え始めます。
そのことにずっと疑問を持っていました。


一つには、日本の国民の中で、アメリカ合衆国大統領選挙に関心がある人が一体どれだけいるのだろうか、という点です。
二つには、なぜアメリカの大統領選挙ばかり、そんなに詳しく、しかも予備選挙のずっと前の段階から、共和党VS民主党の闘いという図式を報道するのかという点です。


メディアのこの注目の仕方は、(アメリカが大統領選挙に費やす期間が長いためもあって)日本の衆議院選挙の報道などよりもずっとしつこいくらいです。
世界には190カ国以上の国があります。その中で、なぜアメリカだけをこんなに追うのでしょうか? なぜもっと近隣のアジアの国々に目を向けないのでしょうか?


日米が同盟関係にあるとか、貿易相手国として重要である、といったこと以上の意図をそこに感じざるを得ません。
端的に言ってしまえば、アメリカの日本支配という構図です。アメリカに関する情報ばかりを流すことによって、日本国民は自然とアメリカ流価値観に染め上げられてしまいます。


そして、それを強力に推進してきたのが、過去20年の日本の政治です。
だからこそ、日本はアメリカの後を追って沈み、日本の財産がアメリカに取られ、日本の文化も地に落ちたのです。
なぜ日本の政治家が、そのように日本を損なうことに熱心であるのか、その理由は私には解りません。


しかし、政治家もメディアも不正直で、国民の目を欺き続けてきたことは確かです。そして未だに、それを止めようとはしていません。


バラク・オバマが大統領になったとき、私も演説の巧みさにすっかり騙されてしまったのですが、はて4年経って何が「CHANGE」できたのかと問うと、「医療制度改革」以外は殆ど公約が実現されていません。
そして、その国民の失望感を払拭するために放った起死回生の矢というのが、降って沸いたオサマ・ビンラディンの殺害)であったというのですから呆れた話です。


これでは「テロとの闘い」をぶち上げて国民を熱狂させ、イラク戦争に踏み込んだ前大統領のブッシュと何ら変わるところがありません。
ちゃんとした独立国であるパキスタン領内に密かに兵士を潜入させてそこに居た人間を殺害する。これはテロではないのでしょうか?
その時のヒラリー・クリントンの言い分が奮っています。「アメリカの国内法ではこれは合法だ」いったい彼女の頭の中はどうなっているのだろうか、と思います。


この傲岸不遜。
傲岸不遜で己を恥じない人々が、一国のリーダーになっている。
そして、さらにひどいことに、日本はこの傲岸不遜な人たちのいいなりで動いている。


民主党が勝とうが、共和党が勝とうが、どっちにしてもアメリカ合衆国は変わらない。
同様に、二大政党制を真似て実現した日本の自民党VS民主党という政治も、どっちに転んでも変わらない。それは単に大衆のガス抜きのためのイベントに過ぎません。
そのことを、大衆はすでに気づき始めています。気づかないフリをしているのは、当の政治家とマスコミだけではないでしょうか。


*私は、オサマ・ビンラディンという人物はもっと以前に、既に死亡していたと見ています。また国際テロ組織「アルカイダ」というものも、実際には存在しないと考えています。

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このコーナーでは、時事の話題に触れながら、意見、雑感等を不定期に発信してまいります。

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