LOTUS STUDIO BLOG
これから何が起こるか。我々は何をすればよいのか。
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スマートフォンの利用が急速に拡大しているそうだ。
テレビのトピックスでは、女子会なるもので、体をほぐす体操にスマホを利用する「技」というものが伝授される模様が映し出されていた。


あほらし。


本人たちは、ナウでヤングでカッコいい
スマホを「使いこなしている」つもりになっているけど、
逆に「使いこなされている」ってことに気がつかないのかな?


コンビニがないと生きていけない人のように、スマホがないと生きていけない人が、戦略的に作り出されているんだぜ。
そんな、大衆化の戦略に落ちてどうすんのよ。
メーカーも、通信事業者も、マスコミも、みんなそこを狙っているんだぜ。


スマホを「使いこなせる」ことは「個性」じゃないんだ。
逆に「大衆化」されたってことなんだ。
こんなもの、ほどほどでいいんだよ。
ほどほどが「使いこなす」ってことなんだ。


スマホがスマートであるということは、コンビニが「不便」を代替してしまったように、
「スマート(かしこさ)」を代替しているんだ。
別にスマホを使わなくたって体操はできるのに、何でスマホを使わなきゃならんの?
使う人間が、「スマート(かしこさ)」を代替されて、どんどんバカになっていく仕組み。
それがスマートフォンだ。


5年後、大大大震災が起きて、コンビニも通信も壊滅したら生きていけるのか?
それでも生きて行ける智慧がある、というのが本当のスマートってもんでしょうが。
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自分が「いかに物知りであるか」ということを、誇ろうとする人たちがいますな。
つまんない人々でげす。
はっきり申し上げて、小生はおつきあいしたくはありませんな。
(向こうもでしょうけど)


「自分がいかにものを知らないか」その発見こそが、「知」であるのに‥‥。
あ、あれも知らないぞ、あ、こんなことも知らなかった。
それが楽しいのに‥‥。


自分は知らないことだらけ。だから、楽しいな。
ああ、無知でよかったなー。
自分は成人した子供を持つ親世代に属するのだが、同年代の人と会ったり、電話で話したりするたびに出る話題が「ひきこもり」に関するものだ。
また「ひきこもり」にまで至らなくても、精神を病んでいる人のなんと多いことだろうか。
あっちにも、こっちにも、身内にも。


しかし「ひきこもり」は、何も若い人だけの専売特許というわけではない。
中高年の「ひきこもり」も、けっこう居るのだ。
かくいう自分も、鬱病で5年ほど苦しんだ。(でも性格なのか、ひきこもらなかったがね)


社会に出るのが怖い、人と会うのが怖い。
この気持ちもよ~く解る。
自分も10代後半から20代にかけては、まったく対処できなかった。
でも自分は、その「苦しみからなんとか逃れたい、フツーの人になりたい」と、チャレンジする方を選んだ。
そして今がある。


身も凍るような恐怖体験の最初は、やっぱり映画だった。
東宝怪奇特撮シリーズ『マタンゴ』(1963年)。

マタンゴ

無人島に漂着した若者たちが、空腹のあまり群生しているキノコを食べ、次々とキノコ人間マタンゴに変身していく。
映画のラスト、運良く帰還を果たした一人の生き残りの男が、その恐怖体験を取調室で語っている。
その後ろ姿からカメラが男の前に回り込むと、ギエーッ、男の顔の半分がすでにマタンゴになっている。
ぞぞぞーっ。
今でも思い出すと恐怖が甦るのだが、当時少年だった僕は、半年ほど夜眠るのが怖かった。


このころの東宝怪奇特撮シリーズは、出色のホラー映画ばかりで、『ガス人間第1号』(1960年)の土屋嘉男の青白い顔とか、『美女と液体人間』(1958)のドロドロも怖かったなー。
成人してから、コマ劇場地下にあったコマ東宝で、これらの東宝怪奇特撮シリーズの連続上映があり、見続けたことがあったけど、どういうわけかこれが怖くないんだ。
『マタンゴ』も、キノコ人間の作り物に目がいってしまい、あんまり怖くはない。
ところが、それから半年もすると、子供時代の「『マタンゴ』は怖かったなー」という恐怖体験がまた甦って来るのだ。
結局、大人になって追体験しても、既に別物と認識してしまい、原初的な恐怖感は払拭されないということみたいだ。
不思議だなー。


また昭和30年代は「原爆」の恐怖が表に出始めた頃でもあった。
『ゴジラ』もそうだし、『美女と液体人間』もそうだし、「放射能」というものが人間を変容させてしまうということが「恐怖」としてあったのだ。
第五福竜丸のビキニ環礁での被爆事件が起きたのが1954年。自分が生まれた年である。『ゴジラ』はこれをネタに作られ、30年代は米ソの水爆開発が加速した。
東京オリンピックが1964年。これでテレビが普及し、原爆のケロイドの映像が流されるようになった。
小学生だった僕らは、原爆と水爆はどう違うかといったことを、『少年サンデー』や『少年マガジン』のグラビア特集から仕入れ、情報交換をした。


これらの体験を通して、「恐怖の本質」とは何かということを自分は知ったのである。
結局、「恐怖の本質」とは「自分が変容してしまうこと」なのである。それも悪い方に。


一方で、人は「幸福になりたい」と願う。
それも「変化/変容」には違いないのだが、その機会が訪れたとして、その後、どう転ぶかは解らない。
そこで、悪い方に転ぶことを恐れる人は、変化の機会そのものを避けるようになって行く。
卑近な例は「結婚」だ。
「結婚」など弾みでするものなのに、「結婚後」を心配する人は、心配のあまり、どうしても結婚に踏み切れない。
そしてズルズルとトシを重ねて行く。
これが「保守的態度」であり、それが極端に進んだ病理が「ひきこもり」だ。
「保守性」とは「変化/変容」への恐怖である。


今まで大切にして来た自分、および自分の生活状況が、ある日を境に変わってしまう。
これは、環境の変化でも起きるし、他者との接触でも起きる。
他者と接触することは、その人の影響を陰に陽に受けるので、そこから自分が変わらざるを得なくなる。それがもの凄く怖い。
だから、自己防衛本能の強過ぎる人は、環境変化に遭わないように、他者と会わないように、隠遁して暮らすことになる。
また、そこまで行かなくても、自分が変化に晒された恐怖を、周囲の環境のせいにしたり、他者のせいにしたりして、真正面から受け止めること無く、逃げながら生きることになる。


しかし、「変化」というものはどんなにあらがっても避けられない。釈迦が「諸行無常」(常なるものは何もない)と言った通りである。
どんなに若くあろうとしても、日いちにち、死に向かって老化していくことは避けられない。


だとすれば、
「変化/変容」から逃げるのではなく、
むしろ「変化/変容」を積極的に演出し、コントロールする術を身につけた方がいい。
それが「恐怖」から逃れる最大のポイントだ。


そこで、
「変化」を受け入れる、更には「変化」を愉しむ、という心境に自分がなっていくことが大切だ。
そうすれば、世界が違って見えて来る。
「トシをとるのがイヤだなー」ではなく、「トシをとるのが愉しみだなー」に変えて行く。
カッコいい老人、老婆を目指せばよい。
それによって、人生が変わる。


もちろん、一足飛びにはその心境に到達出来ない。段階が必要だ。


1)先ずは『諸行無常』(変化は避けられない)という道理を知ること。
2)その上で、この先たとえ悪い変化になったとしても、受け止めること。
(「人間万事塞翁が馬」の例えにもあるように、何が「悪いこと」なのかは表面的には解らないし、どのような体験であっても、人はそれを糧にすることができる)
3)そういう覚悟ができたら、「変化/変容」の機会を逃さないこと。
(保守的な人というのは、どんな誘いも、あれこれ理由をつけて断わるものだ。そうはならないこと。つまらない人間だな。)
4)「変化/変容」を好む人とだけ付き合い、真似をすること。
5)自分から、「変化/変容」を仕掛けていくこと。そして結果を受容すること。(2に戻る)


「ひきこもり」の人がいたら、教えてあげてくださいな。
続きを読む
友人からの知らせで、8月21日、お台場のフジテレビ前で、若者によるデモが行われたことを知った。参加者は6千人だそうである。





ちーとも知らなかったなぁ。
知らない訳だよ。日本のマスコミはこのことをほとんど報道しなかったらしいから。
一部のスポーツ紙が取り上げ、それをワイドショーの中でコメントするという形はあったようですが。
今ではすっかり定着したこの新聞記事紹介番組、でも考えてみると、おかしいですよね。
テレビは「○○新聞によれば~」と言っていればよく、ニュースソースに関する責任は、ぜんぶそっちにおっかぶせられる。
いわゆる「他人のフンドシで相撲をとる」という最たるもので、報道機関としてはいかがなものでしょうか?
もう「テレビには独自取材力はありません」と、宣言しているようにしか見えない。

さて、このデモの発端と背景については、wikipediaに書かれてあったものを転記するのでご覧ください。
<フジテレビが抗議デモの対象にされた背景には、2000年代のフジテレビが韓国に対し極度に肩入れする番組内容・編成となっていることが挙げられる。具体的には、韓流ドラマを他局より数多く流している他、韓国と関係のない番組においても随所で韓国のスターや韓国文化を取り上げたり、時には日本人スポーツ選手を貶めてまで韓国人選手を持ち上げる報道姿勢にあるとされ、これが韓国・韓流のごり押しであるとして一部のインターネットユーザーを中心に問題視されている。2011年7月に俳優の高岡蒼甫がTwitterにて韓国に肩入れするフジテレビの姿勢を批判する発言をし、さらに高岡がその後所属事務所を退職に追い込まれたことに端を発し、それまでフジテレビおよび韓流ブームに疑問を持っていた層の不満が噴き出すこととなった。一方で高岡自身はこうした動きには否定的である。>


よく解らない。
日ごろ僕も、日本の民放テレビのどうしようもなさをさんざん書いてきているので、民放テレビの報道姿勢に関しては大いなる疑問を呈するのだが、はて「韓国・韓流のごり押し」という講義理由には今ひとつピンと来ないのである。
主催者側は、<これは決して韓国人を差別するものではない>と言い、けっこうその点に関しては配慮している姿勢も見えるのだが、この騒ぎに「チャンネル桜」も便乗して、反韓国を打ち出すものだから増々ワケがわからなくなっている。

いったい何がいけないのか?
(1)韓国がいけないのか?
(2)外国のタレントやドラマが、日本のメディアに過多に露出していることがいけないのか?
(3)意図的に(2)の状態を、免許事業である公共電波を使って操作していることがいけないのか?
(4)(3)が事実とすれば、その狙いはなんなのか? また誰がそれを画策しているのか?
争点は、これらがゴッタ煮になっていると思う。


先ず(1)だが、「チャンネル桜」はそっちへ持って行きたいわけだ。でも、デモの主催者はハッキリそうじゃないということを言っている。


では(2)だが、日本のタレントさんや放送作家の人たちからすれば職場が奪われることになるので、当事者にとっては深刻な問題かもしれない。
しかし一般の視聴者からすれば、どこの国の歌やドラマであっても、質のいい歌やドラマが放映されるのは、文化理解につながるし、いいことだと僕は思う。
僕自身もNHKの『トンイ』は毎週愉しみに見ているし‥‥。


主催者が(って、正式な主催者がいるのかどうかもわからないんですが)問題にしているのは、結局(3)(4)ということのようだ。
そして僕も、インターネットでフジテレビのK-POPの紹介番組を見たりしてみたのだが、確かに、これは「韓流」というブームが意図的に仕掛けられているな、と判断する。
そうした場合に、「いったい何が問題なのか」については、一つの見解として、ふかわりょう氏が次のように述べておられる。
http://www.youtube.com/watch?v=EIJWcjsKRT4&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=hBgAa8jp67I&feature=related


僕は、この発言に感心しました。ブレがないし、すごくクレバーな人なんですね。ふかわりょうさんて。
視聴者が明確に広告だと認識できる状態ならいいが、番組の中であたかもそれが社会事象であるかのように報道するのは詐欺だ。
確かにそういう線引きはあると思う。


しかし民放テレビというのは、そもそも、そういう線引きがない仕組みだから。
「いま吉本が旬」だと思えば吉本ばっかりになり、「グルメが旬」だと思えばグルメばっかりになるし、「韓流が旬」と思えば韓流ばっかりになる。「旬」が移り変わり、捨てられたところがシュン!となるという繰り返しなんだ。
かつてビートたけし氏がこう言ったことがある。
「テレビが情報操作しているっていうけどさ、俺なんか逆に操作しちゃうもんね」って。


テレビの情報操作、大衆洗脳は今に始まったことではなくて、ずっと前からあったことだ。
しかし、今、それが若者たちのインターネットメディアで問題視されるようになったということには、それなりの意義があると思う。
僕もつい「テレビは終わり」ってなことをよく言っちゃうんだけど、本当はテレビが終わりなんじゃなくて、「民放の営業構造」とか、「大衆洗脳の仕組み」が終わりってことなんだよね。


民放はご承知のように、CMの放映料で経営が成り立っている。
これは「大衆に広く伝播するパワーが在る」ということを前提にした、高額の放映料設定になっている。
だから、民放は絶えずそれを証明する必要があり、そのため常に「視聴率」が問題にされるわけだ。
一方、クライアントは、大衆伝達のパワーを期待して巨額の広告料を支払う訳だから、「視聴率」が高い番組でないと広告料に見合った効果が得られない。
かくして、「今、視聴率がとれる番組は何か?」という価値観を最大目標に、民放の世界は動いて行くわけだ。
「韓国・韓流のごり押し」という事態は、その一つの表出と言える。


しかし、今のテレビの経営状況を考えると、それだけでは済まされない。
例えば、グルメのお店レポート番組がある。これはグルメ情報番組なのであろうか?
実態は、お店から広告料に相当するものを頂いて放映している場合が少なくない。
あるテレビ局社員に聴くと、広告代理店が持って来た企画をとるためには、他のテレビ局に持っていかれないようにするために「広告出稿にプラスして番組内でも紹介しますから」といったサービスがよく行われるそうだ。
近年、純粋な広告出稿量が激減しているので、番組をタイアップにしたり、そっくり通販にしてみたり、と広告収入以外で稼ぐ方法を、テレビ局も必死に模索せざるを得ないのだ。


今回のフジテレビデモでは、この背景に、電通と韓国政府があって、その誘惑にあっさり乗っかったフジテレビと、たくさん広告出稿している花王も同罪でけしからん、と言っているようだ。
この事実関係は不明だけれど、僕の勘では「まあ、ありうることだね」と思う。
木村太郎氏が、韓国政府のブランド委員会のことを「うっかり発言」し、それがテレビ局側から訂正させられてる。
http://www.youtube.com/watch?v=aiPKg7eFSfc
http://www.youtube.com/watch?v=PzWRfwp7XjI&feature=player_embedded
結局、背景の大本に「韓国政府」があるということになると、右側の人々が騒ぎかねないということを懸念しているんでしょう。
でも僕は思うんだけど、「韓国政府」の戦略は見習わなければいけないと思うよ。日本は逆にあまりにも戦略がなさ過ぎだよ!


しかし、
今回のフジテレビデモの本質は、もっと別のところにあったんだと僕は思うな。
ひとことで言えば、主催者および参加者は「インターネットの呼びかけによるデモをしたかった」んだと思う。
(テーマは二義的で)先ず試してみたかったんだと思う。
なぜなら、それが世界の潮流だから。
アラブの世界で次々と革命が起こり、イギリスで暴動が起こり、ウィキリークスがアメリカの秘密文書を暴露する。
これらは、既存のテレビメディアを無視した、インターネットパワーの所産だ。そして若者が主役である。
でも日本では暴動が起きない。あんな大震災が起きたあとも、何か淡々としている。世界の潮流に乗り遅れているぞ。
それが本音だったんだろうと、僕は思う。


作家の橋本治さんは、今の社会状況を「明るい抑圧」と言ったんだよね。
僕は初めてそれを目にしたとき、「なるほど」とそのセンスに唸った。


「明るい抑圧」


<元気がないんじゃない。元気のやり場がないだけだ。現実の中に、本当の「元気」を発揮させるような場がない。「便利と簡単」だけで世の中が出来上がっていたら、人は「元気」などというものを持ち合わせる必要がない。「克服する」を必要とする「不便さ」がないから、「元気」を身内に備えても、その発揮のしようがない>
と、橋本治さんは書く。(『広告批評』336号より)


今の若者たちにとって、70年安保のころとか、その前の60年安保の国会をぐるぐる巻きにした学生デモ、東大安田講堂の攻防戦、浅間山荘事件、日航機ハイジャック事件、加えてオウム真理教の事件さえも、一種の憧れに見えるのではないだろうか?


余談ですが、先日、お茶の水へ行ったら、ヘルメットを被った学生たちがビラ配りをしていたんですよ。
その格好とか、看板の書き文字が、昔の全学連の時代とまったく同じなんです。
「うわぁ、学生運動も伝統芸能になったのか」
と、そのとき思いました。
それを脈々と伝承させてきた人たちがいるというのは凄いけど、新しいスタイルが作れないってことですからね。結局「克服する」対象がないんだね。


きっと今の若者たちの多くは思っているはずだ。「どうしたら、そんな熱狂が持てるんだ」って。熱狂を持ちたいんだと思う。
だから、その代替を「サッカーのワールドカップ」なんかに見出そうとしているんだと思う。


だけど、それらを含めて、結局は「誰かに乗せられている」という状況は崩せないわけだから、そうではない自発的な何かをしたい、するべきだという衝動は当然起きて来ると思う。
今回のフジテレビデモは、その端緒であったような気がする。
(この後、CMへの出稿が多過ぎるということで花王へのデモも予定されているそうです)


そのテーマと矛先は、フジテレビ側が言うように「抗議される筋合いはない」のかも知れないけれど、
今の社会状況の「明るい抑圧」を形成している構造の、一端にはカスっているのだと思う。
なぜなら、その証拠に、


メジャーなマスコミは、この事件を「報道しない」という姿勢をとったわけだから。


それは、逆説的に、今のマスコミの腐った体質を露呈してしまったことになる。
マスコミは、その失敗の重要性にまだ気がついていない。
マスコミがしたことは、ガダフィやムバーラクや東京電力や菅直人がとった「初動」と同じだ。
まずは、なにはなくとも「隠蔽」する。
それはジャーナリズムではない。マスコミ人よ、恥を知れ!


「韓国・韓流のごり押し」という抗議テーマは、やや的外れだったかもしれないけれど、日本の若者たちも、今後段々と本丸に迫っていくことになるだろうと、僕は思う。
知人から、次のような投稿をいただいたので全文掲載します。
これを貰ったのは随分前だったのですが、転載のタイミングを逸してしまいました。(許可はとってあります)
転載は忘れた頃にやってくる、なーんちゃって。


ここに書かれてあることに、僕は全面的にagreeです。
この和歌山の太地町なんですが、その後オーストラリアの姉妹都市の住民が、かつて移民した太地町出身者の墓を破壊するまでにエスカレート。
いくらなんでも、お墓をぶっ壊すなんて‥‥。
小生も、西洋人というか、アングロサクソンというか、キリスト教文化圏の人というか(括りはあいまいですが)、いろんなところで根本的な思想の違いを感じます。
今度じっくり検討してみたいと思います。(なお、太地町と豪ブルーム市との関係は、修復に向かったようです)
http://www.afpbb.com/article/environment-science-it/environment/2653377/4767223


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
以下、知人よりの投稿


先日、NHKで和歌山の太地町で、伝統的なクジラの「追い込み漁」をやっている漁師さんたちと、シーシェパードの活動家たちとの闘いをドキュメンタリーでやっていましたが、西欧の自然保護活動家の人たちって、本当に自然のことを知らないんだなぁ~って感心させられました。


っていうより、自然なんて、どうでもいいんですよね。
もともと、自然がわからない。
概念としての言語的な「自然」を、みずからの思想として、標的にしやすい対象を選んで、侵攻をかけていく……昔ながらの、西欧人のやり方です。
スペイン、ポルトガル~大航海時代から、全然変わっていないんですね。
思想をもつということは、攻撃することにつながりやすいんです。


思想を押しつけて、侵略を推し進めるところの、その根底には、人間には「争う」と云うことを、なかなか止めようとしない、本能にも近い心的構造があるんだなぁ~といつも思うんです。
たとえ、physicalな力(暴力)を用いなくとも、コトバや、妨害活動のような行為も、やはり「争う心」の表れです。
人間って、とくに西欧人は伝統的に、自分の「考え」を主張するとき、あるいはその主張に基づいて行動するとき、往々にして、誰かと「争う」ことをヨシとするんですよね。
論争であれ、討論であれ、裁判であれ、やはり「争う」ことです。


なぜ、争うの?
「相手」が、こちらの「何か」を邪魔している、あるいは、阻害している、と判断されるからです。
もちろん、その「相手」とは、往々にして、「人」でない場合もあります。
動物や、自然界に生息する諸生物や、自然現象そのものであったりする。
あるいは、社会や、常識や、社会的な慣習であったりもする。
あるいはまた、それは「自分」であったりもする。


たとえば、自分の中の「自然」と争う(闘う)ことで、心身に於ける病気がその信号となって現れることも往々にしてある。
そして、みずからの「思想」に抵抗するだろうと見なされる「ものごと」を行う人たち。
つまり、異分子です。
ここに、侵攻・侵略・攻撃の動機が発動します。
異分子は、排除する。


ある地域に生息する生物、人や動物、鳥類、なんでもいいです。
その生物が、そこの土地で「営み」を続けて行こうとします。
生物は、いろいろなことを試みながら、食物を獲得していきます。
和歌山県の太平洋岸に生息してきた人たちが、クジラをつかまえて、食べたり、油をつかったり、その「営み」に供してきた。
これが「自然」です。


クジラやイルカは、知的に高度な生き物であり、可哀相であり、その愛らしい動物を獲って食べる野蛮人など、ゆるせない……という、きわめて人工的な思想で、「自然保護」を訴える人たちが、きわめて人為的な行為である妨害活動(攻撃)をしかけている。
これが「人工」です。


クジラを食べるのは、食文化だ……という人もいますが、文化という言葉だけで安易にくくられるのもちょっとなぁ~って思います。
人は、往々にして、文化や文明という言葉を好むようです。
この二つの言葉は、人間が、何かの行為をしつづけた暁に展開してくる、人間の、人間による、人間のための価値観というような匂いがします。
しかもそれは、進歩した、あるいは進化した人間にのみ具現が可能な、高度な社会や価値観として連想されるものではあります。
近現代の用語でいうところの「自然」とは、やはり一線を画するコトバでもあるようですよね。
でもやっぱり、文化や文明という言葉が提示するイメージは、ごく限られた狭いフィールドにおいて具現するもの、という感じがします。
つまり、普遍的に、どこにでも存在するところのものでもなさそうなのです。
つまり、「人為的」「人工的」という言葉と、どこかしら兄弟のようでもあります。
人工的、人為的、文化、文明という言葉に、どことなくぼくが感ずるチャチな感覚は、ひるがえって考えると、自然という普遍的な存在と無意識のうちで対比することによって生じる「感じ」のようなものかもしれないですね。
自然という言葉自体があまり好きではないですが、西郷さんのように「天」という言葉を用いるとしたら、天に較べたら、小さな存在である人間が、背伸びしてこしらえたちっぽけなもの……という感覚が、文化や文明という言葉によって喚起されるのかもしれないなぁと思うんです。
昭和の高度成長期に登場した「文化包丁」や「文化住宅」という言葉のもつ、すごくチャチな感じ、軽薄な響きは、このような人間の浅ましさが垣間見えることに由来するのかもしれないですね。
この文明人の浅ましさは、便利主義に結びついています。
便利がいちばん。これはもともと西欧人の専売特許であったと思います。
しばしば、合理主義などと呼ばれてきた。

でも、西欧人の中には、自己反省からか、この合理主義や、近代文明、機械文明を否定して、自然なるものに回帰しよう……と訴える人びとも現れてきた。
これはいいことだと思います。
自然を讃嘆する文学や、文化人類学など、自然や原始的なものに価値を見出すことに、喜びを感じる人たちが現れてきたんですから。
でもやっぱり、多くの西欧人にとって「自然」っていうのは「思想」なんですよね。

「食文化」という言葉でいうなら、三島由起夫が(文化防衛論で)警告した、減退する「本物の文化」という、「菊と刀」的な、それこそクジラだって、人間だって食べちゃうぞ的な、そういう生殺与奪のダイナミックな表現でないと、一般的な、形骸化した死んだ文化のような意味合いでとらえられると、あのクジラ漁はわからないでしょう。

サルを食べる人たちもいるし、トカゲやワニを食べる人たちもいます。
ウシをいっぱい育てて食べている人もいるし、昆虫を食べている人もいます。
果物ばかり食べる人たちもいる。
ものを「食べる」人たちを、いきおい、否定できるでしょうか。
シーシェパードの人たちは、
「ここに10万円ある。金をやるから、クジラをとるな」
と脅かしていました。
まぁあれは、彼らのドキュメンタリーを撮るための(漁師たちを怒らせる)演出なんでしょうけれども、「金のために、クジラを獲る」という発想そのものが、機械文明的な、チャチな文化人の発想ですね。

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imanari munekazu

Author:imanari munekazu
このコーナーでは、時事の話題に触れながら、意見、雑感等を不定期に発信してまいります。

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