LOTUS STUDIO BLOG
これから何が起こるか。我々は何をすればよいのか。
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これは1975年のアカデミー賞を受賞した、ドキュメンタリー映画の傑作である。日本での劇場初公開は昨年(2010年)の6月。つまり35年後であった。しかしフイルムで撮影された当時の映像は、いささかも古びてはいない。現代においてもまったく変わらぬ戦争の実態、そして戦争の背景にあるものを、鮮やかに描き出している。

だが、映画は素晴らしいが、その分、見終わったあとは、暗澹とした気持ちに襲われる。
結局、人間は、愚かなままなのか。

映画は、べトナム戦争の帰還兵や傷病兵、戦死者の家族、ジャーナリスト、軍事アナリスト、政治家などへのインタビューと、歴代大統領やべトナムの人たちのニュース映像、べトナム戦争時の実写フィルム等々を、淡々とつなぐ構成になっている。

近年における「ドキュメンタリー映画」再評価は、マイケル・ムーアの登場に負うところが大きいと思うが、あのような恣意的な編集をしていないという点から言えば、この『HEARTS AND MINDS』は、手法的には対極に位置した、完成型だとも言える。逆にいうと、マイケル・ムーアがいかに独創的であったかということでもあるし、もう「映画を観て、皆さん考えて下さいね」では済まない時代(つまり映画を武器として戦う時代)になったとも言える。

タイトルの『HEARTS AND MINDS』はジョンソン大統領(べトナム撤退を考えていたケネディが暗殺された後、その次に就任。ケネディは軍産複合体に暗殺されたという説がある)が、議会で語った演説
「米国は戦いに備えるが、勝利の行方は、現地の人々の心と意思(HEARTS AND MINDS)にかかっている」
から取られている。

一見してなんのことかよく解らないが、まさしくこのタイトルに、映画の主題が表されているように思う。
要するに、多義的な「HEARTS AND MINDS」なんだということ。

ジョンソンの言葉の「現地の人々」とは、南べトナムの人のことを差すのか、それとも北べトナムの人のことを差すのか、あるいは南北関係なくべトナム民族のことを差すのか、わからない。また、聞こえようによっては「手は出すが君たちのことなんて知らないよ」とも受け取れるし、「俺たちと同盟結ばないとヒドい目にあうぞ」という脅しにも聞こえる。
そして、これこそが、きわめてアメリカ的なレトリックでもある。

トルーマン大統領の顧問であったクラーク・クリフォードが証言する。
「第二次大戦後、軍事、経済においてソビエトを凌ぐ大国となったアメリカには、責任感とともに最強国としての自負が芽生えた。世界の未来さえも意のままに出来るのでは、と」
また、アイゼンハワー時代の国務長官であったジョン・フォスター・ダレス
「進歩という概念を、我が国のみにとどめず、世界に広めるのだ」
と議会で語った。

このアイゼンハワーとダレスが打ち立てた理論が、「共産主義のドミノ倒し論」であった。そしてその論に沿って、反共産主義政府を支援するという目的で、これ以降アメリカはべトナムに深入りしていくことになるのである。
この「共産主義のドミノ倒し論」を「大量破壊兵器」に、べトナムをイラクに置き換えれば、先のイラク戦争開戦時となんら変わりがないのだ。

そのアイゼンハワーも、1961年1月の退任演説では「アメリカは軍産複合体に操られそうになっている。国民よ、軍産複合体の動きを監視せよ」と警告したのだから、よくワケが解らない。アイゼンハワーは軍人から政治家に祭り上げられた人なのだが、なってみたら、大統領でも抗えない巨大な圧力に操られていると知って震え上がり、その実態を国民に知らせることで、反抗しようとしたのだろうか。

さて、映画はいわゆる「反戦」ではなく、多角的に描かれているので、多様な受け取り方がきっとあるだろうと思うのだが、僕がこの映画でいちばんピンときたのは、「アメリカン・フットボール」シーンであった。
アメリカ人のメンタリティーって、結局、「アメリカン・フットボール」に集約されているんだ、と気づいたのだ。
なぜ、アメリカ人に、あのゲームがそれほど人気があるのか? 今まで、全然解らなかった。

しかし映画を観て解った。「アメリカン・フットボール」というゲームは、軍事作戦そのものなのである。
相手の戦略を予測しながら、攻撃側はある地点まで進む。そしていったん休んで、状況を把握したのち、次の作戦を考えて実施する。こうして、相手陣地まで攻め続けて行く。それが「アメリカン・フットボール」であった。早い話が軍事ゲームなのである。
そして、チア・リーダーは戦意高揚を煽るメディアなのであった。

そう言えば、ロバート・アルトマンの傑作『MASH』では、朝鮮戦争の前線基地で、「アメリカン・フットボール」を競う場面が出て来るのである。その意味が解った。前線で戦っていることも、「アメリカン・フットボール」に興じている事も、大した違いじゃないという、アルトマンの風刺であった。

1月30日(日)午後4時 NHK BShi で再放送があるので、ぜひご覧いただきたい。絶対に損はさせません。
監督・製作は、ピーター・デイヴィス。
再放送の案内はこちら↓
http://www.nhk.or.jp/frontier/index2.html

映画の詳細につては、次に詳しく出ている↓
http://www.excite.co.jp/ism/concierge/rid_17722/pid_1.html
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19日、就職活動中の若者に会うために浅草へ行った。彼は北海道出身だが、ユースホステルに住み込みで働きながら就職活動をしている。もう半年になるが未だに就職先は決まらない。

酒を呑もうという話になって(彼のおごりで)神谷バーへ行った。およそ10年ぶりくらいだったが、店内はたいそう賑わっていて、「ああ。こういう店は健在なんだ」と思った。ちょっと値段が高い所は、どんどんチェーンにやられちゃう。神楽坂なんてひどいもんだよ。

で、ビール大ジョッキ2杯と電気ブラン2杯を呑んだ。そうしたら隣に地元のお婆さんが来て坐って(お一人でしたが)「辛口もうまいよ」というので、それを1杯呑んだ。しばらくして、その反対側にノルウェー人のARNE BJØRGUNGさん(読めないよー)が一人来て、彼のおごりでビール大ジョッキ、そのお返しでまたビール大ジョッキを呑んで別れた。

店を出て「あれ変だな」と思ったがもう遅い。腰が立たない。
しかし、人間の帰巣本能ってすごいもんだね。
渋谷駅でも、明大前でもちゃんと乗り変えて‥‥。
乗り越しして、最後はタクシーで家までたどり着いた。
翌日は体が非常に痛い。渋谷駅の階段で転げ落ちて、駅員に抱きかかえられたのを覚えている。

おまけに花粉症が始まり、頭は痛いし、咳は出るし、胸は痛いし、鼻声で目も痛いし、膝に力が入らない。
翌日は「ガリガリクラブ」の日だったけれど、トマトジュースで大人しくしていました。
「ガリガリクラブ」は、世界140カ国踏破というガッツな女性Hさんがゲストで来て、いろいろ教えていただいて楽しかった。
やっぱり、NHKニュースなんか見てたら、もうダメだよな、と再確認しました。
新聞の購読をやめ、雑誌の購読もやめ、そしてテレビのニュースを観ることも、ほとんどなくなった。
正確に言うと、テレビではNHKBS1の「ワールドニュースアワー」だけを観るようになった。(日本語版だけど)
これを観てつくづく感じるのは、「日本て、やっぱ島国なんだなー」ってこと。世界のニュースと、日本の国内ニュースが、かけ離れているんだよね。

いま世界のニュースでは、チュニジアの暴動(一人の青年の焼身自殺が端緒だった)に発した、アラブ世界での政府転覆の動きや、北半球での大寒波、南半球での大洪水などがトップニュースだっつーのに、日本では海老蔵と、小沢さんの証人喚問だもの。この落差に、膝がカックンとなる。

ワールドニュースを観て思ったのは、世界の中心地は、いまだ地中海にあるんだってこと。
ヨーロッパとアフリカは地中海を挟んで反対側だし、この地域で、世界の3大宗教が同居しつつ対峙してる。
だから、どのTV局も他国の動向に、非常に関心が高い。おまけにかつての植民地支配の名残りで、同じ言語を話す国が世界中にあるから、旧宗主国として、それらの国々の動向も気になるわけだ。

知ってる? 大英帝国連邦71カ国が(なんと71だよ! 国連加盟世界193カ国の3分の1強だよ!)4年に1度、オリンピックのようなスポーツ祭典をやっているって。「コモンウェルスゲーム」っていうそうだけれど、それらの国々では、我々が知っているオリンピックよりも人気が高いんだってさ。それに世界の国旗を見ればユニオン・フラッグをベースにしたものが非常に多いし、お札もエリザベス女王がいっぱい使われているんだよね。

ところが日本では、海外情報と言っても、まずアメリカ、あとは中国と韓国、それと朝鮮の話題が少し上るだけ。もうここに、関心の程度が表れているもんね。

ワールドニュースアワー」では、アメリカのABCのニュースも流しているんだけど、これはまた日本とは違った意味で、世界とは孤立している。アメリカの場合は、自分たちが世界の中心と思っていて、それで他国に関心がないんだ。(今のABCのトップニュースは、アメリカ下院女性議員に対する、狂った男の銃乱射事件、といういかにもアメリカらしい話題でやんす)
アメリカの田舎ではニューヨークに一度も行ったことがないって人がいっぱいいるんだよ。でっかい国だし、合衆国だから、自分の目が届く周囲にしか関心がないんだね。

でも日本は違う。日本は「島国」であることと、教育とメディアと知識人が、アメリカ一辺倒で来たために、そうなっちゃった。今だって、知識階層やメディアにたずさわる人は、「アメリカがあーだ、こーだ」しか言わないでしょ。アメリカの事例しか言わないでしょう。たとえば、田原総一郎さんだって、アメリカや中国を話題にしたとしても、ヨーロッパではとか、アフリカではとか、オーストラリアではとか、言わないでしょう。もう眼中にないわけですよ。最初っから。(田原さんを例に出しましたが、別に批判ではありませんです。みんなそうだというだけであります)

これって、知識人のいけないところだと思うな。
日本ていう孤児は、今まで、「アメリカっていう世界の孤児」を、お手本にしてきたんだよ。
日本は骨川スネ夫で、アメリカはジャイアンだったんだ。
だけど、もうアメリカをお手本にしちゃダメだ。
アメリカって国は、かつてのアメリカン・ドリームを実証していた中間層がぶっとんで、病理だけが噴出する国になっちゃった。

そのアメリカを真似しつづけたから、日本も同じように病理が噴出する国になっちゃったんだよ。
未だに二大政党制が理想という政治家がいるんだけど、アメリカを見てごらんよ。
二大政党制のもっとも悪い面が噴出しちゃっている。自分の利益しか考えないエゴむき出しの連中が、徒党を組んで、多数によって政治を支配する。いわゆる衆愚政治に陥っているじゃないか。

No more America.

日本はこれから、ヨーロッパや、アジアに目を向けていかなければダメだよ。
ヨーロッパは、早くから成熟した国だし、学べるものはいっぱいある。
特にこの経済不況の中での生きる智慧は、ヨーロッパにこそあると思うんだ。
そして、アジアの国とは、近くだし仲良くしていかなくてはならない。元気なのは日本以外だけど、日本にだって伝えて行けるものがまだまだたくさんあると思うんだよ。

我々は、学校でずっと「日本史」「世界史」って区別して習ってきたでしょ。
まず、その考えを捨てなきゃダメだね。
義務教育で「日本史」と「世界史」を分けて学習させられるから、もう最初から感覚が別物に出来上がっちゃう。
だけど、靖国神社の遊就館を初めて見学したとき、僕は「あゝ、そうじゃなかったんだ」って漸く気づいたのね。
昔っから、日本は世界と繋がっていたんだって。「日本史」の外側に「世界史」があるんじゃなくて、「世界史」の中に「日本史」もあったんだって。

ということで、これからはもっと世界を見ていきましょうね。
TBS土曜日の報道特集、前日の岩上安身さんへの取材結果をどんなふうに報道するのかなーって観ていたんだけど、放送時間は正味10分強って感じでしたね。
で、さあ、次はどう出るか!と身を乗り出すと、そのタイミングで見事にCMが入る。
エラい! TBSさん、決して本分を忘れてはいませんぞ。
(もちろん皮肉ですが)

ハッキリ申し上げて、予想通り、しょーもないまとめでした。
金平茂紀さんは危機意識を持っていらっしゃるんだけど、もう一人の男性が、取材もしていないし、やっぱりトンチンカンで鈍いんだよね。
問題の本質を全然解ってないと思う。

小沢一郎さんが既存メディアでの記者会見を拒否して、ニコ動で取材を受けたのを、「ジャーナリズムには政治家の暴走を監視する役割がある」とか、「自分の意に添わないということで拒否だというのだとしたら、政治家としてひ弱だ」とか、「ダラダラ長時間流せば、真実が伝わるってことでもない」とか、「恣意的な報道と、編集権とは違う」とか、そんなスリランカなこと(あ、間違えた、セイロンでした、ってこのギャグ前にも使った。進歩が無くてスマン)ばかり言って、反論したつもりになっている。

そう、その通りですよ。仰ってることは正しいよ。
ハンドレットパーセント・アグリーですよ。あたしゃ。
だけど、今問題なのは、テレビが肝心のその「正論」をまったく果たしていないということじゃないのかさ。
だから、そこで「正論」を吐いて「反論」するって、ものすごーーーーく陳腐だよ。
全然、なにも解ってないということだし、結局は、メディアの人間のタカビーな視点を、またもや曝け出したってことに過ぎないよね。

問題はそんなことじゃないんだよ。
取材対象者が、テレビを拒否したってことがメインなんじゃないんだってばさ。
視聴者が、「テレビに呆れて拒否して始めているんだ」ってこと、解んないのかな?
小沢さんだって、インターネットの向こうに別種のオーディエンスがいるからこそ、話しているわけでしょ。
それはなんでです?
そっちの方が、真実に迫れる可能性がテレビよりも高い、って判断したからじゃないか。

つまり、あなた方が言う「正論」に近いのは、テレビよりもむしろインターネットだってことでしょう?
息子と2人で見ていて「もう、しょうもないね。テレビは終わったね」と顔を見合わせましたよ。

今のテレビの問題って、結局は、構造的な問題なんです。

1)民放は、広告収入によって成り立っているということ。
2)その広告を価値づける指標は「視聴率」であること。
3)ゆえに「視聴率」を上げることが第一義になること。

あとは、そこから派生した問題。
根本は、ここに帰するの。
それは、実は関係者がみーんな、解っていること。

で、「視聴率」が諸悪の根源なのだから、「視聴質」に目を向けるべきじゃないか、なんて議論は20年も前から言われていたわけ。
だけど、何年経とうが、ついぞ「視聴質」に変わった試しがない。

要するに、もう無理なんです。テレビに自浄作用は働かない。
広告収入で食べるってことと、ジャーナリズムの理想は、そもそも合致しないんだよ。

もう、テレビの終わりが来るのか、来ないのか、が問題なんじゃない。
それがいつなのか。3年後なのか、5年後なのか、ということが問題なんです。
本日16時過ぎから1時間、USTREAMで、ジャーナリスト岩上安身さんの「TBSが取材にやってきた」というLIVEを観ました。
対談相手は金平茂紀さん。
「TBSが取材にやってきた」というタイトルだったけれど、まあ、対談ですね。
視聴者数は番組が終わった段階で、461人でした。

テーマは、「マスメディア劣化に対する危機意識と、インターネットメディアの可能性について」といったところでしょうか。
まさに、僕がいま感じていること、そのまんまです。
金平さんは、危機意識を持っておられるということだけれど、マスメディアを支配している人たち(オーナーや経営者)は、そう思っていないんじゃないかな。

思っていたとしても、それはたぶん、事業採算性としての危機、なんだろうと思う。
しかし、本当はそうじゃないんです。
金平さんのような現場の人は「取材力」の低下の危機として認識しているみたいでしたが、視聴者側から言えば、情報の信用度の危機、なんですよ。
「マスコミなんて、信用できない」って感覚が、急速に広まっている。
それが一番の危機なんですって。

そこで今は、「記者クラブ」問題がクロース・アップされてきているんだけど。
記者クラブ」というのは、長年の悪弊で、マスコミが仲良しクラブをつくり、そこで政治的な取材を独占してきた制度のこと。
このため、

●フリージャーナリストの締め出し
●政府や検察関係が流す情報の垂れ流し
●マスコミの記者が、政治家と持たれ合い関係になってしまう

という問題が生じていたのね。
これは、ジャーナリズムの根幹を揺るがす問題であるにも関わらず、当のメディアが当事者であるため、長年放置されて来た問題なんです。
それが、例の検索官の証拠改ざん事件や小沢一郎議員に対する報道で、一挙に噴出する形となったわけ。

それとね。岩上さんは、マスコミ取材記者の横暴も語っていましたね。
このことは、先月、水曜倶楽部の人たちと会ったときに、過去取材を受けた人は、みんなそう言ってましたよ。
まあ、とにかく記者連中の態度がデカいということ。自分たちが国を動かしている、自分たちだけが正義、オレは頭がいい、というような態度丸出しで取材に来て、取材を受けても、いいように料理されちゃう。それでいて、モラルのかけらもない、ってね。

この対談の模様は、日曜日のTBS『報道特集』でオンエアされるそうです。

あ、そうだ。この対談中「顔」と「表情」の話になったんですよ。
オバマさんと、菅さんと比べてね。

これは僕もずっと感じていた。
民主党の代表選の時の菅さんは、もう顔がダメだった。
薬害エイズ問題の時の「実績」を強調していたけれど、その発想自体がダメだと思ったし(なぜなら、未来のビジョンが聞きたいわけで)顔が、その当時とは決定的に違っていた。

「顔がうわずっている」って感じなのね。
声がうわずるって言葉はあるけど、顔がうわずるって言葉はありまへんな。でも、そうとしか言いようがない。

以前、桜井叔敏さんにも、顔に関する話をうかがったことがあったな。ルーベンス・バリッチェロっていうブラジル人のうまいF1ドライバーがいるんだけど、人気がないのね。
バリッチェロはアイルトン・セナのいわば弟分だったんだけど、セナと比べて何が足りないか、という話になった時に、桜井さんがちょっと考えて「やっぱり顔かな?」って言ったんだよね。
セナは、日本人好みの、哀愁のある顔をしてたんだね。

それでね、うわずらない顔の総理大臣を考えてみたんだ。
パッと思いついたのが、児玉清さん。
どうかな?
若者の政治に対する無関心が甚だしい、らしい。
もっとも、自分も20代のころは(いや30代、40代になってさえ)関心がなかった。(^^;)
しかし、言い訳をすれば、当時の無関心と、今の無関心とは質が違うと思うのである。
自分の若い頃は、自民党政権がずっと続いていて、また日本も右肩上がりだったので、どうせ参加しても何にも変わらない、という雰囲気があったのだ。

しかし今、自分もビンボー人に転落してみて、政治への無関心がどれほど自分に跳ね返ってくるのかが、身にしみて解るようになったのである。
「搾取」という言葉は、詐欲用語だったので、以前の自分は嫌いだったのだが、最近はよく使うようになった。それは、本当に「搾取」としか呼べないような社会システムが、ハッキリ見えてしまったからであった。

このような状況の中で、政治に無関心のままでいたら、一般庶民は、搾られるだけ搾られる状況に置かれてしまう。また、マスコミはウソばかり垂れ流しており、庶民をある価値観のもとに洗脳しようとしている。
そこで、僕は、こういう仕組みができないものかと考えたのである。
自分にはシステム開発の知識がないのでどうやったらいいのか解らないのだが、

【政治家の言動をウォッチする仕組み】

をインターネット上に構築するのである。
現在は、有権者にとってはほぼ選挙だけが政治判断の機会になっているわけだが、我々が知り得る情報は、選挙数週間前になってからの告知活動だけである。
近年になり、「マニフェスト」というものが掲げられるようになったのは一歩前進であるが、しかしそのマニフェストがどう実行されたのかを、判断する材料がない。

そこで、「Wikipedia」のような、政治家専門のデータベースを作るのである。
そこでは、各政治家が、いつどこでどのような発言をし、またどのような政治的活動をし、どういう成果が得られたのか、あるいは得られなかったのか、評価は一切せずに、事実だけを記述していく。
そして、その事実記載に関して、ページ上に政治家からの弁明の機会も与えるようにする。

このようなデータベースがもし構築出来れば、政治家に対するチェック機能として働くだろうし、選挙前には候補者に対する評価を、有権者が充分に検討することができるようになるのではないだろうか。
それはまた、今のマスコミによる不毛な政治レポート(政争しか伝えない)から脱却し、本当に必要な政治に対して、議員に目を向けさせ、しっかり働かせるパワーを持つようになるのではないだろうか。

さて、どなたかやってくれないかなー。

そして、第一弾としてこれが構築出来たら、同じ仕組みを、

●知識人階層や
●コマーシャルに登場したタレント

にも、広げて行く。
キャピタリズムの洗脳の手先となって活躍する、知識人やタレントや、白い犬の動向を記録し、責任の所在を、つねに監視出来る体制をとっていくのである。

さて、どうでしょうか?
キャピタリズム三題

1月3日、NHKBS1のプロジェクトWISDOM『どうなる日本・世界が語る復活の処方せん』を見始めて、10分でやめた。呆れた。(最近、呆れてばっかりいるなー(^^;))
この番組は、世界の有識者に、日本経済低迷からの脱出策を聞く、というのが主旨らしいが、揃えたメンツがひどいのである。いわゆるエコノミストといわれる人たちと投資家を登場させているのだ。

オイラに言わせれば、現代のエコノミストの役割は2つある。

1)経済の結果に対して、後から、もっともらしい屁理屈をくっつけること。
2)屁理屈で大衆を洗脳し、利益が富裕層に流れるように誘導すること。

そして、それに手を貸しているのが、マスコミである。

アメリカ人の投資家ジム・ロジャースは、
「日本には、もう見込みがない」と言う。
そのとき、オイラはテレビの前で叫んでいた。
「お前みたいな盗人に言われとうないわい!」

ジム・ロジャースという人は、今後アジアが成長市場だと睨んで、拠点をシンガポールに移しているのである。
アメリカにすら住んでいないアメリカ人。そこに本性が表れている。
彼の目的は、どろぼう行脚である。
ジム・ロジャースは、「日本という家にはもはや金目のものはない」と言っているのである。
いったいそれが、世界に聞く【処方せん】なのだろうか? なにをやっているんだNHK。

エコノミストにしろ投資家にしろ、彼らが語る経済理論は、みな次によっている。

1)豊かさは、経済成長によって達成される。
2)経済成長は、GDPの成長という指標によって計られる。
3)GDPを成長させるためには「自由貿易」が不可欠である。
4)ゆえに市場を開放し、移民も受け入れ、経済を活性化させねばならない。
5)しかるに、日本市場はまだまだ閉鎖的であり、それが経済が低迷している要因である。

しかし、でたらめも甚だしい。
まず、
1)豊かさは、本当に経済成長で達成されるのか?(自分はそうじゃないと思うけど)
2)一国のGDPが成長したとしても、その内部で貧富格差が拡大している状況を無視して、それが「豊かさ」の指標として適切だと言えるのか?
3)自由貿易では、消費者は安さによって利益を得ていると説明する。しかし、国の関税収入はなくなり、雇用は常に賃金の安いところを求めて移動するので、先進国では空洞化が起こり、よって購買力が下がり、経済は低迷する。
すなわち、自由貿易によって得をするのは、一部の富裕層だけであり、投資家は(これらの経済システム全体に責任を持つことなく)利益を求めて投資先を移動していくのである。早い話が、盗人である。

しかも、大陸間を石油エネルギーコストを多大にかけても、なおかつ、自国で生産するよりは安いというのは、いったいどういうわけか? 後進国の労働者が不当に搾取されているからではないか。
このような、環境も、国の経済も、人々の生活も破壊する仕組みが、果たして「成長」と言えるのだろうか?

なによりも、こうした論理がウソであったことは、小泉政権から現在に至る日本の現状を見れば、すでに証明されている。ああ、それなのに、それなのに。いまだに、政治家も経済会もエコノミストも投資家もマスコミも、この論理を振りかざす。
90年代、アメリカではすでに中間大衆の没落が起こっていた。この20年で、日本は見事にアメリカ化した。悪い部分が。空洞化。貧富格差の拡大。教育荒廃。医療崩壊。巨額の財政赤字。詐欺師の横行。

番組では、先進国の中で日本だけが成長していないっていうけど、アメリカに富を奪われたからなんよ。
お人好しの日本人が、アメリカの手先の政治家の政策で、どんどん身ぐるみ剥がされていったんよ。

その盗人に、日本の将来を聞いてどないすんねん!
いま考えれば、『アメリカくん』って歌っていたサンプラザ中野くんは、見抜いていたんだな。
アメリカの陰謀を。エラいぞ、サンプラザ中野くん。

オイラの好きな経済学者に、ラビ・バトラというインド系アメリカ人がいる。
彼は、20年以上も前から、資本主義の行き過ぎと、世界経済の崩壊を警告していた。
そして、2009年のリーマンショックで、実際にそのバーストは起こった。
ところが、アメリカは税金の投入によってその堤防決壊を一時的に収めた。(しかし爆弾はまだ眠っている)
これは日本も同じで、国民の税金を銀行や航空会社につぎ込んでいる。彼らの誤りを正すことなく。

これは、グルなのである(あの、グルって霊的指導者のこと言いますが、そっちではありません。あ、解ってた?(^^;))
しかるに、ラビ・バトラさんのような経済学者は、表にはまったく登場しない。
マスコミが起用するのは、マスコミに金が落ちるような仕組み(つまりキャピタリズム)の信奉者だけであり、その枠組み内で、小異の論争を繰り広げている人たちなのである。
このマスコミの横暴と洗脳には、騙されるんじゃないぜ。

さて2番目は、マイケル・ムーア監督の『キャピタリズム』だ。息子に「マイケル・ムーアはこれで完全にキレが戻った」と聞いたので観たのだが、確かにそうだった。
冒頭の、パックス・ロマーナになぞらえたパックス・アメリカーナの描写にはうなったね。これぞ、マイケル・ムーア節。冴えてます。で、ローマの悪辣な皇帝になぞらえたのは、ブッシュではなくてチェイニーなんだよね。そう、よくぞやってくれました。(ブッシュがお飾りであったことはすでに明らかにされている)
できれば、日本版もつくってもらい、日本をこんな姿にした責任者を血祭りに挙げてもらいたいものでげすな。

だけど、アメリカでこういう映画が作られ、当初国民の9割が賛成したイラク戦争にしても失敗だったという声が多くなっているというのに、アメリカくん追随で来た日本には、ちゃんとした総括がないというのは、いったいどういうわけなんだろう。
これも結局、大本営と同じでウヤムヤにしてしまうんだろうか。それが日本式なんだろうか。
マイケル・ムーア監督の『キャピタリズム』、おすすめでやんす。

さて3番目は、ショーン・マカリスター監督のドジュメンタリー映画『ナオキ』。NHKの「東京モダン」プロジェクトの中の1本で、山形国際ドキュメンタリー映画祭2009年で絶賛された作品だ。これは昨年暮れの12月30日に再放送された。「東京モダン」は、外国人の映像作家に「日本」を撮らせる試みであったが、ハッキリ言って、『ナオキ』以外、観るべきものはない。『ナオキ』だけが出色なのである。

このドキュメンタリーの魅力の第一は、主人公である。密着ドキュメンタリーは、主人公が面白くなければどうにもならない。ところがサトウナオキさんの存在そのものが、置かれた状況といい、英語も話せるインテリジェンスといい、ユーモアといい、抜群の魅力なのである。(会いに行こうかな?)

加えて、このドキュメンタリーを出色にしているのは、監督であるイギリス人ショーンの人柄と言うか、立ち位置である。他の「東京モダン」の監督は、日本をありふれたオリエンタルな興味の中で捉えようとしているのだが、ショーンの視線の高さは同じなのであった。ただ、かつての経済大国である日本に来た外国人として、不思議だなーと思うことを、まるで納豆を食べてみるように(実際にそういうシーンもある)試していく、というスタンスなのである。

そして、サトウナオキさんと同じく、ユーモアに溢れている。特に坂本九の歌を選曲したセンスは抜群だ。
これが、作品に救いをもたらしていると思う。
マイケル・ムーア監督もそうなのだが、悲惨な現実をユーモアで描くという手法には共感できる。(たぶん、マジメな人は嫌悪するでしょうがね。僕は『24時間テレビ』なんて大嫌い)

「日本は経済大国なのに、どうして、君はそんな生活をしているんだ」と訊ねるショーンに、ナオキが答える。
「ディス・イズ・キャピタリズム。日本は、江戸時代にずっと鎖国を守って来たのに、君ら西洋人がそれを無理矢理こじ開けたんだ。だからこうなったんだ」
すると、少し間があってショーンが答える。
「ソーリー」
笑える。
笑えるが、キビシイ真実がそこにある。

興味ある方には、BDに録画したものをお貸しするでやんす。
さる賀詞交換会パーティーに出席した。
パーティーは苦手で、結局、誰とも名刺交換などしなかった。
BINGOも当たらなかった。
まあ、今のオイラには、貧後をどうしようか、という関心の方が強いのだが‥‥。

政治家の先生が5名来ていて、それぞれが来賓としてスピーチをした。
皆さん、卯年だからって言うんで、

「景気がホップ、ステップ、ジャンプとなる年」だとか、
「卯年の時は、過去、必ず株価が上がってる」とか、
「ウサギの後ろ足が大きいのは、山を上るのに適している。だから困難は克服できる」とか、

根拠LESSのスピーチをなさっておられました。
それを聞きながら、ああ、この先生は、今年になってその話を何回しているんだろう、とご同情申し上げたのでした。
政治家って大変だよね。

サンデル先生の『白熱教室』ってのが大学生に人気だそうだ。
あたしゃ、呆れたね。
これって、昔流行った「究極の選択」ってやつだろう?
「うんこ味のカレーを喰うか、カレー味のうんこを喰うか」って。

「お金で買えるもの買えないもの」とか「動機が大切か結果が大切か」とか。
高尚なことを言ってるようだけど、やってることは、うんこカレーと変わらないよ。
そこで思考実験してるだけだ。

その内容が悪いとは言わない。それを考えることはいいことだし、大切なことだよ。
だけどオイラが驚くのは、そんなもの、最高学府で、しかもハーバードとか東大でやることなのか、ってことだよ。
こんなテーマは、飲み屋のオヤジとか、農家のオバちゃんに聞くことだって。
きっと、みんなそれぞれの人生哲学で、ちゃんと教えてくれるよ。
それで、Aさんはこう言った、Bさんはこう言った、Cさんはこうだった、って多様性を実地に学んで行くんじゃないか。

なにもハーバードの教授に聞かなくてもいいんだよ。
サンデル、読んでる?
(いや、オレは読んでない)m(_ _)m

それを、ハーバードや東大でやんなきゃならないってのが、もうすでに現代の病理だよね。
こんな授業を聴いたエリート連中が、世の中解ったような錯覚をして、やがてしかるべきポジションについて、庶民をミスリードしていくんだよな。
あーあ、未来は暗いよ。

戦後虚育のなれの果て。
いかに実体験と思考能力を奪って来たかってことです。
日本の教育ってさ、結局、兵隊さんを作る教育なんですよ。
仕組みややり方は戦前と同じで、戦後、頭だけ天皇否定、民主主義、資本主義に変えたの。

だからみんな同じ制服、みんな同じ体操着、みんな同じクレヨン、みんな同じリコーダを買わされる。
その名残りで(というか洗脳虚育の輝かしい成果により)、就活のときもみんな同じ、真っ黒なスーツ着ちゃう。
そうしなきゃいけないと思い込んで。それがルールだと思い込んで。
就職しても、みんな一緒にラジオ体操しちゃう。そうしなきゃいけないと思い込んで。

アメリカだと音楽授業は、オーケストラで、みんな違う楽器を演奏して、全体のハーモニーを学ぶわけでしょう。
日本は、全員リコーダとかピアニカ。
大人になってから続けられないような楽器を学ばせて、いったいどうすんだよ!って。

日本では役に立たないことを教えるのが教育。これは、小中高大学、一貫している。
文科省考案の、一貫したスバラシイ虚育システムだ。
教えたいのは「団体生活と横並び精神」だけ。

見てみぃ。不祥事が起きた際の企業の会見。役員が横にズラーっと並んで一斉に頭下げる。
みんな「一応頭下げときますが、責任は私にはありません。他の奴らです」って言ってる。
大本営と同じだよ。あれだけ一般庶民を見殺しにして、戦後、だーれも責任とらなかった。

私流の【会社】の定義:会社とは、責任を曖昧にする仕組みである。

団体生活と横並び精神教育。
でもそれは平等じゃなくて、実はもの凄い差別なんよ。
そこから落ちこぼれることは恐怖だし、すぐに落伍者のレッテルを貼られてしまう。
だから、子供は意に反しても頑張らなきゃいけないし、親もそうしなきゃいけないって思い込んじゃう。

だけど、時代は変わったんだよ。
もう、命令に従うだけの兵隊さんはいらないんだって。
これからは考えながら生きるっていうスキルが必要なんだよ。
それなのに、教育とか就活は、昔のまんまなんだ。

子供は敏感だから、「なんかヘン?」「大人たちの言ってることはおかしい」「ぼくはそんなこと一緒にやりたくないし、できない」って思っても、「そんなこと言ってたら落ちこぼれちゃうでしょ」って叱られる。
だから、そこにフィットできない子は、登校拒否になったり、閉じこもりになるしかないわけだ。

でも、学校なんて行かなくてもいいんだよ。
就職しなくたって、別にいいんだよ。
そういう「こうであらねばならない」とか「これが世の常識」といったスタンダードを作っている奴らは、それによって利益を得ているから、そういう価値観で洗脳してるだけなんだって。そうやって、解らないように搾取しているんだぜ。そこに気づかなきゃ。

だけどそうは言っても、親は不安だと思う。
なぜかっていうと、そういうレールから外れたときのオルタナティブが明確には用意されていないから。
今のところは、自分で、よく考えるしかないな。
仕事初めと共に、大学生の就職活動のニュース映像が流れた。それを見て「アホか!」と思う。
君たちは、ファッションを愚弄するのか。
スーツをサラリーマンの作業着にしてどうする?
ミラノの男が泣くぞ。
たぶん、パンチェッタ・ジローラモさんも泣く!
と思う。

それともなにかい。これから葬式に行くのかえ?
男も女も真っ黒けだ。そして女の子は一様にブラウスの襟を上着の上に出して着ている。
ああ、恥ずかしい。
たぶん、ドン小西先生が「いったい何年前だよ」って言う!
と思う。

あのね、70年代のころ、サラリーマンを「どぶねずみ」って言ってたんだよ。
なんでかっていうと、そのころのスーツがグレーだったからさ。
それで、「どぶねずみファッション」って、サラリーマンを揶揄したわけさ。

今はその時代よりも、もっとヒドい。
どぶどろファッションになってる。
完全に真っ黒け。

おーい、個性はどこ行った?
君たちは、個性、個性って言ってたんじゃないのか?
就活産業の、こーせい、あーせいにハマってどうすんのよ。

モヒカン刈りで行けよ。モヒカン刈りで。
タクシードライバー』のロバート・デニーロのように。

オレの友人で、昔、トラックで築地の電通前に乗り付け、「役員に会わせろ」と言った奴がいるぞ。
「いま、オレを採用しなかったら損だぞ」って電通を脅したんだ。
そしたら、ちゃんと役員が会ってくれたってさ。

桜井叔敏さんから聞いた話だが、本田宗一郎が生きていたころのホンダの採用試験は、<大学時代に心底打ち込んだこと>のプレゼンテーションだけだったそうだ。

履歴書に大学名を書くことは許されなかった。
たとえば柔道に打ち込んだ奴などは、ボロボロになった柔道着を着て面接試験に来たりしていたそうだ。みんな<オレを見てくれ>と必死だったわけだ。
ちなみに、桜井叔敏さんのプレゼンは<恋愛>。
凄いねぇ。本田宗一郎の前で<恋愛>を語って合格したんだってーから。
いい話だねぇ。
でも、今のホンダがどうであるかは知らないよ。大企業になっちゃったからね。

若者たちよ。君たちはバカだ。
戦略を間違っている。
「選ぶ」ということは、一体どういうことなのか?
「違い」を見つけたいからに決まっているじゃないか。

それを、違わないように、違わないように、日々訓練し、自己演出している。
まったく逆だ。アホか!
おそらく、外国人から見たら、理解不能だと思う。アメージング! アンビリバボー! インクレディブル! って言われちゃうぞ。
と思う。
戦後学校虚育の慣れの果てだね。

もう兵隊さんが必要な時代は終わったんだよ。
高度成長期は、とっくのとうに終わったんだよ。

大企業なんて目指すな。
中小零細で、ビジョンのあるところを目指せ。
それがなかったら、起業しなさい。
マーケティング・コンサルタントの仕事には、足掛け20年ほどたずさわりました。
延べ300社以上の企業の戦略のお手伝いをするとともに、1990年代初頭からは、自身でも「ライフスタイル・マーケティング」という新しい概念と理論を提唱し、これはその後のライフスタイル・ブームの先がけとなりました。

しかしグローバリズムの波が押し寄せてからは、これに疑問を持ち、「Marketing」という言葉そのものにも、しだいに違和感を感じるようになりました。
マーケティングでは、市場規模をパイと言います。食べ物のパイにたとえた言葉です。これをどう切り分けるか、ということで市場占有率(シェア)を争うのです。

その時の視点は、パイを斜め上から眺めているのです。マーケット(市場)がそこにあらかじめ在り、「さあ、このパイをどれくらい、どのように食べようか」と腕組みして思案している。これが、いわゆるマーケティングの、出発点なのです。私は「違う」と思うようになりました。と同時に、その考え方は決定的に「古い」とも思ったのです。

パイを見る側ではなく、パイ側に立ったなら、つまりお客の立場に立ったなら、あなたは「食べられたい」と思うでしょうか? 私はイヤです。
顧客重視などと言葉では言いながら、しかしマーケティングには「さあ食べてやるぞ」という気持ちが、どこかにあるのです。

しかし、マーケット(市場)というものは、本来「価値の交換」の場であるはずです。「価値の交換」によってお互いが利益を得る。それが市場(いちば)の機能です。
ところが、マーケティングはそれを草刈り場(利権争いの場)にし、金融市場はさらに鉄火場(博打場)にしてしまいました。これは全くおかしいことだと思います。

そこで、マーケティング・コンサルタントの仕事をやめるだけではなく、「Marketing」という言葉そのものも捨てる決心をしたのです。
そして、思案の末、新しい言葉を見つけました。「Communiting」です。私の造語です。Community を創っていくから、Communiting です。

パイを斜め上から眺めるのではなく、ある芯の周りに粉をまぶして、おだんごをこねて大きくして行く。でも、食べきれないほどの大きさまでにはしない。それで成り立つ程度の大きさで充分である。私は、これこそが、これからの時代において相応しい考えであると思うに至りました。そしてこれを「Communiting」と名づけたのです。さて、広まっていくでしょうか?
「テレビは終わった」
先日も、【GARI GARI CLUB】に集まった面々は、口々にそう語っていた。
「俺たちが子供の時には、まさかテレビが終わるなんてことは考えられなかったけどね、でも本当にそういう時が来たんだねぇ」と、レコードプロデューサーのK氏は、感慨深げに言葉を発した。

テレビの終わり。と言っても、なんのことやら、解らない人にはさっぱり解るまい。だって、今日だって、ちゃんとテレビは放映されているしさ。なんにも変わりないように、見えるもんね。
もちろん不景気で、広告収入が減っているという現実はある。しかし、「テレビの終わり」という意味は、そんなことを言っているんじゃないんですよ。
価値の崩壊のことを言っているんです。

しかしそう言うと、必ず「腐っても鯛」のようなことを言い出す人がいる。
先日も、ある人が、
「テレビは終わったなんていう人がいるけど、テレビの影響度はやっぱり凄いものがある。私の知り合いのお菓子屋さんが、ちょこっと紹介されただけで、一日で200万円売り上げたんだから」
と語っていた。

確かに、そういう影響度はあるだろう。それは否定しない。森達也さんも「視聴率1%は100万人」を強調するし、ホリエモンさんも「テレビのリーチの深さ」からフジテレビ買収に動いたのだと言う。だから、そこに価値を見出す人はそれでいいのである。その人たちにとっては、テレビというものの価値は、結局のところ「一度に大勢の人に伝播する力=視聴率」にこそあるわけだ。

しかし、自分などが先ず思うのは、「知られることは、即、価値なのか」ということである。先のお菓子屋さんのことで言えば、かつて、こういうことがあったのである。
80年代にマガジンハウスの『Hanako』という雑誌が、ヤングOLの市場を席巻したことがあった。『Hanako』はおしゃれなスポットをいち早くOLさんたちに伝えるトレンド情報誌として、その後のお店紹介の形をつくったと言ってもいい。

その影響力は非常に大きかったので、『Hanako』への掲載を望む飲食店が一時激増した。しかししばらくすると、逆に、取材拒否をする店も増えて行った。なぜかというと、これら『Hanako』の読者はトレンド・ハンターであって、お店のリピーターにはなってくれないのであった。

一方で『Hanako』は、次々に新しいコンセプトをOLに提示しなければならなかった宿命から、ついにはオヤジ連中の行きつけの店にまで、その領域を広げて行ったのである。焼き鳥の煙がもうもうと立ち込める店でも、『Hanako』が紹介すれば、それはちょっと冒険気分で出かける、違いが解る女の、新しい楽しみの場であった。

しかしこれが、老舗の店主にはすこぶる評判が悪かったのである。それらの店は、すでに常連客が居て、新しい客など必要としていなかった。それなのに、一見(いちげん)のOLがワッと押し寄せ、常連客を追い出してしまったのである。常連客の方は、店の雰囲気も変わってしまうし、店主が心変わりをしたのかと思って、しだいに行くのが遠のく。

ところがしばらくすると、OLたちはサーっと潮が引くように居なくなり、かといって常連客も戻らず、店はそれで大打撃をこうむったのである。これは私が実際に、渋谷の焼き鳥店で当時、店主から聞いた話だ。
つまり、「知られる」ことが、逆に価値を破壊する場合もある、ということを言いたいのである。

メディア(media)には、ビークル(vehicle)としての価値とともに、コンテンツ(contents)としての価値もある。
ビークルとは乗り物という意味だが、一般にメディアという言い方はこのビークル機能のことだけを指していたり、ビークル+コンテンツのことを指していたりとあいまいなので、広告業界ではこれを区別して使っている。
つまり、

メディア=ビークル+コンテンツ

である。コンテンツとは商品であり、ビークルはその流通経路という位置づけである。
今のテレビ局は、自分のところでは商品(コンテンツ)をほとんど作っていない。商品は外注先が作っている。
つまり今のテレビ局は、「電波利権に守られた流通企業」なのである。
そして民放の場合、その利益構造は広告収入によって賄われているため、利益を上げるには、次の二つの方法を追求することになる。

それは、広告収入を吊り上げるか、コンテンツに掛かるコストを引き下げるか、である。
前者のためには、広告が価値あるものだということを示す必要がある。それが、「利権=希少性」と「伝播力=視聴率」になっていたのである。
また後者のためには、ひと山いくらで、有名人タレントを確保できる「お笑い系」が重宝されるようになったのだ。(この辺りの事情は、3年ほど前、ダンディ坂野さんと新宿で呑んだ時に、彼からお聞きした)

さらには、視聴率の喰い付きを良くするためには、人間の基本的な欲望を刺激した方が手っ取り早いので、喰いたい、痩せたい、戦いたい、貶(おとし)めたい、というコンテンツばかりになって来ているのである。
しかしこれでも不足と考えるテレビは、森達也さん言うところの「どんどんONにする」手法を繰り出して来る。

私は、昨年8月民放で放映された、池上彰さんの終戦特集のスペシャルを観て、ホトホト呆れたのである。池上彰さんという人は好きだが、構成・演出がヒドすぎた。アウシュビッツを取材に行くのに、かわい子チャンタレントを連れて行く。(なんで?)しかも現地でクイズ形式で番組を進行する。(なんで?)さらには途中で、グルメレポートも差し込むのである。(なんで?)いったい全体、何を見せたいのか?

スポーツでは、アナウンサーの絶叫に、さらに「ゴーーール!」などという文字を被せるのが当たり前になった。CMの前後では、同じ映像を繰り替えし流したり、バラエティではオムニバスの話題になると、肝心のところで別の話題に切り替えたりと、まー、引っ張ること、引っ張ること。
こんな曲芸が余りに過ぎるので、嫌気がさした視聴者はどんどん民放から逃げ出しているのである。実際、私の周囲では「NHKしか観ない」と語る人ばかりになってしまった。

一方NHKは、地上波2チャンネル、BS3チャンネルの計5チャンネルを持ち、教養番組から、「えっ、こんなのNHKでやっていいの?」と思うようなエロネタやバラエティまで、ものすごく幅広い品ぞろえとなった。こうして、コンテンツだけに目を向ければ、いまやNHKの独り勝ち、独走という状態になっているのである。

民放の劣化は、主として営業構造の環境激変(インターネットの登場と、番組の録画視聴の一般化)から来ている。だがNHKも含めて言えば、コンテンツの信用度の劣化という問題が大きいのである。しかしこれは視聴率のように数字で測るわけにはいかないので(やろうと思えばできるのだが)正式な議論として、出てこないだけの話なのである。

昨年暮れのある忘年会で、私の目の前に座った主婦がこう言った。
「もう、最近のテレビって本当にヒドイわよね。NHKまでもが、海老蔵だよ!」
自分も同感だった。海老蔵氏がどうしようと、私の生活とはなんの関係もない!
さらに言えば、小沢一郎氏の証人喚問問題だって、どうだっていい争点である。
そんなことよりも、政治では、いま早急に手をつけなければならぬ問題が山積しているではないか。

要するにこうした報道は、もっとも重要な点から国民の目を逸らすための、政官業外電(外電は、外資と電波)が結託した、意図的な情報操作なのである。
乱暴に言ってしまえば、「1%100万人」という価値は、大衆操作に使える(と思っている人々の)価値であって、ジャーナリズムの信用度の価値ではない。テレビ報道の信用度は、すでに崩壊しているのだ。

嘘だと思うのなら、こういう思考実験をしてみて欲しい。昔ならクーデターを起こした際には、政府機関掌握と同時に、必ず放送局を押さえた。しかし今それをしたとして、果たして意味があるだろうか? ない。なぜなら、個人メディアの方が、信用度がより高いように思える時代になったからだ(完全に高いとまでは言わないが‥‥)。なにしろ携帯電話で動画まで送ることができるんだよ。

小沢一郎氏は、検察審査会から「起訴相当」の議決を言い渡されたとき、その意見表明のメディアとして、インターネットの「ニコニコ生放送」を選んだ。このことは、故佐藤栄作元総理の「新聞は出て行け。私はテレビに話す!」と言った記者会見を思い出させた。このときの佐藤栄作総理は、信用度の点から、新聞ではなくテレビを選んだのである。そのテレビに、もはやかつての信用度はなく、小沢一郎氏はインターネットを選んだのだ。

年末に起きた二つの事件は、極めて象徴的だ。一つは尖閣諸島の中国漁船衝突事件、もう一つはウィキリークスの機密情報漏洩事件である。この両者とも、ニュースの発端はインターネットであった。テレビはそれを後追い報道した。しかも、私が解せないのは、その情報漏洩が法律的に是か非かという議論があるさなかで、NHKまでもが、同じ映像を何度も何度も繰り返し流し続けたことである。まるで(もう、流出しちゃったんだから、いいよね。他局に出し抜かれないようにしないとね)と言わんばかりである。

これって、根本的におかしいと思うのだ。報道するなら報道するで、自局の見解を表明すべきではないだろうか。ウィキリークスや海上保安庁職員の行動に賛同するのか、しないのか。ウィキリークスの代表は逮捕されたし、海上保安庁職員は職を失ったのである。では、そのまた流し(また聞きという言葉はあるが、また流しという言葉ははじめて使った)をしたテレビには、いったいどういう覚悟があったと言うのだろうか。

だから、テレビはもう信用できないのである。
2011年の幕開けです。
去年は、このブログもほとんどお休みしました。仕事もやめたため、親しい方々からはご心配をいただきましたが、ウツになっていたわけではありませんでした。
むしろ逆で、ウツ病は緩解しました。

一年間、タダで働いたので、とっても忙しかったです。報酬をタダにすると、忙しくなるということが解りました。
結果として貧乏のズンドコ(間違えました、どん底です、ゴーリキーです)に落ちました。これも、どうなるかという実験です。自分は、実験が好きなのです。

とはいえ、ここは日本ですからね。世界にはもっと下がある。
去年は、下下下の来たろう、が流行りましたしね。
僕はまだまだ、下の来たろう、くらいです。甘ちゃんです。

最近はBOP(Base of Pyramid)ビジネスなんて言葉もある。
いやだねぇ。世界中のコングロマリットが、いまここを狙っているんだぜ。
資本主義が崩壊したというのに、まだ反省がないんだ。

「奪う」ことしか考えない連中が、テキトーな理屈をつけて、さも良いことをしているようなフリをして、この市場になだれ込んでいるんだよ。
気をつけなくちゃね。
だいたい「流行語」なんて、みんな、それで利益を得ようとする連中の策略なんだよ。
それを見抜かなくちゃね。乗っかっちゃダメだよ。

一年間ライフスタイルを変えてみて、かなり心境の変化がありました。
すごく楽になった。
自分は今まで、完璧主義のところがあって、そのため失語症に陥っていたのだけれど、今年からは、もっとライト感覚で、へらへらと行くことにしました。へらへら行く技術を身につけなければならんと思いました。

平均たいら・ひとし)を見習わなければ‥‥。
たいら・ひとしというのは、植木等さんが演じたサラリーマン映画の主人公の名前。植木等さん自身は、このキャラクターとは違って、超のつくマジメ人間、律儀な人だったらしいですけど。お父さんが浄土真宗のお坊さん。植木さんも、ちんねんさんをずっとやっていたんだよ。

ウツ病は、どうも更年期ウツだったみたいで、それが緩解したってことは、次のステージに進んだってことです。
早い話が、初老への船出です。
ヨウ、ショロー。

ア、ホレ、スイスイスーダララッタ、スラスラスイスイスイー

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