LOTUS STUDIO BLOG
これから何が起こるか。我々は何をすればよいのか。
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
友人から、ソーシャルメディアに関する講演会があるので一緒に聞きにいかないか、と誘われました。
でも案内文の惹句を見たら、


・スティーブ・ジョブスの死と共に去ったパソコンの時代。
・2012年、ソーシャルメディアの夜明け。
・たった一つの”つぶやき”から生まれるシンデレラ・ストーリー。
・幸運の女神からの『いいね!』で変わる人生。


とあるのを読んで、私は遠慮しました。
こういう流行(はやり)ものを煽る話には、もう私はまったく興味が沸きません。「遅れている」と言われれば、その通りかもしれません。
でもどうなんでしょう? パソコンの時代が終わったとも思いませんし、ソーシャルメディアが、言うほど素晴らしいものだとも、私は思いません。


それに、世の中には、パソコンにすら触ったこともない人たちも大勢いて、そういう人たちだってちゃんと普通に生活をしています。
いまソーシャルメディアに関わらなければ、この先の人生が開かれないかのように言うのは、別の意味で、今という時代を解っていないのではないのかなぁと思います。


「ソーシャルメディア」という言葉を初めて聞いたのは2年前ですが、その時は「social」という言葉を「社会的」という意味だと早合点して、少し興奮しました。でも後になって、twitterやfacebookやmixiのことだと知ったときには、ガッカリしました。


ウィキペディアの定義を見ますと、<誰もが参加できるスケーラブルな情報発信技術を用いて、社会的インタラクションを通じて広がっていくように設計されたメディア>となっています。
でもこれだけでは解りにくいですね。


ポイントは、


マスメディアは多くの人に伝達可能だが、一方的であり、資本や規制による制約もあって誰もが情報発信できるわけではない。
一方、パーソナルメディアは、個人から個人への伝達手段に留まり、それ以上の広がりを持たなかった。
しかしソーシャルメディアは、個人の情報発信がマスメディアのように多くの人々に伝わる可能性を秘めている。


ということにあるようです。
それが「social」という言葉に被せられた意味のようです。


確かにその可能性の意義は大きく、中東革命で大きな役割を果たしたことをみても、これまでのマスコミ支配の構造を打ち破るインパクトがあると思います。
ところが、もちろん良いことばかりではありません。


第一の問題点は、情報発信元の信憑性が疑わしいということです。
中東のCNNと言われるアルジャジーラの放送を見ますと、シリア状勢やパレスチナ状勢を伝える際に、最近は携帯電話で撮影した映像が頻繁に使われるようになっています。でもどちらの側が撮影したのか、誰を撮っているのかも定かではありません。


映像など、最近では簡単に捏造できるわけですから、それを解像度の悪い携帯電話の素人撮影で見せて、そこにアナウンサーがコメントを被せるというスタイルをどこまで信じてよいか判りません。疑いなく観ていたら、アナウンサーの言葉を鵜呑みにするということになってしまいかねません。そして実際に、そういう虚偽の報道への誘導が行われていると私は考えています。


以前ですと、マスコミは必ず「裏」というものを取ったわけですが、それではソーシャルメディアのスピードに負けてしまいますので、今ではソーシャルメディアの後追いをするようになってしまいました。中国漁船衝突事件の際の映像も、出所が解ったのは、ネット上の動画をマスコミが取り上げて随分経ってからでしたよね。つまり、刺激的でさえあれば、「裏」などどうでもよくなってきているのです。


第二の問題点は、田原総一郎さんが最近になって仰っているのですが「twitterは結論しか言わない。途中がない。」ということです。田原総一郎さんは、当初は「twitterは面白い」と言っていたのです。ところが可能性を感じて使ってみた結果、「結論しか言わない。途中がない。」ということが解ったというのです。


これはどういうことかと言いますと、情報を精査したり、関連づけたり、分析したり、思索したりする「中間」がないということです。
ある事柄に関して、「賛成」か「反対」かといった単純な切り口で判断するだけになってしまう。そのいい例が、『いいね!』ボタンです。


何がいいのか、どこがいいのか、全く解らないけれども、ただ『いいね!』と言う。そしてその数を競う。
私はこの『いいね!』方式を、ちっとも「いいね」とは思いませんね。
こうして思考を単純化させた結果、第三の問題点として、ソーシャルメディアは「ネットいじめ」に非常に適したツールに成長してしまったのではないでしょうか?
「こいつ嫌い」「あれはダメ」とすぐに判断してコメントする。


マスメディアにしても、パーソナルメディアにしても、そしてソーシャルメディアにしても、結局はコンテンツ(内容)と、使う側のモラルの問題が問われるのだと思います。
ソーシャルメディアは、確かにマスコミの支配を破壊するインパクトを持っていると思います。けれども同時に、モラルも破壊するインパクトを持っていることを、私はとても危惧しています。
スポンサーサイト
NHK World Wave の「Global Voice」というコーナーで、BBCのインタビューに答えるロバート・レッドフォードが紹介されていた。
ロバート・レッドフォードは、サンダンス映画祭というインデペンドフィルムを発掘する映画祭を主催している。その映画祭がイギリスでも開催されることになり、BBCのインタビューに答えたものだ。


「Global Voice」では、このうちの5分ほどをピックアップして紹介していたが、僕としては非常に興味深いものだった。
サンダンス映画祭は、商業主義では取り上げられない映像にも世の中にとって価値があるということで、言ってみれば映画への恩返しのようにしてレッドフォードが立ち上げたものである。


その「良心」とも言うべきものが、現代のアメリカ社会と政治に対しても、率直な批判として投げかけられてる。



redford2.jpg

redford3.jpg

redford4.jpg

そして、インタビュアーのなぜ「政治家にならなかったのですか?」という質問に対しては、
「ご冗談でしょう」と言ってから、「第一に、人間を狭くする」と言ったあとこう続けている。

redford5.jpg

redford6.jpg

redford7.jpg

「大統領候補者たちの最近の言動はさらに状況を悪くしています」なんて、全くその通りで、僕は「こんなお下劣な人間たちがアメリカの大統領になるのか?」と思っていたのだが、アメリカ人の中にも、自国の大統領候補者が「お下劣」だと思っている人はいるのだ。みんながみんな、あのバカ騒ぎに熱狂しているわけではないのだ。


レッドフォードは、『候補者ビル・マッケイ』(1972)では、民主党の上院議院選挙に担ぎ出されてしだいに良心を失って行く若手弁護士を演じ、『大統領の陰謀』では、ウォーターゲート事件の真相を追求するジャーナリストを演じた。
彼はそれを、ジャーナリズムがまだ機能していた幸福な時代だったと言う。

redford8.jpg

このインタビューを見ていて、二つのことを考えた。
一つは、現にアメリカで暮らしている人間の中にも、最近僕が感じていることと全く同じことを感じて人も居るんだということ。
二つめは、アメリカのマスコミだけではなく、それをそのまま流す日本のマスコミも、全く同じ「メディアの低落」状況に陥っていて、このレッドフォードが語るような意見は殆ど伝えていないんだということ。


もう何度も書いて来たけど、日本のマスコミの報道を見ていた日には、本当に頭がおかしくなってしまう。
マスコミに反省を期待してももうムリだから、「一切見ない」ようにするしかないね。

3.11、民放テレビはどこも「震災番組」の特集を組んだようだが、私は一切見なかった。
見た人の話を聞くと、リポーターやアナウンサーやコメンテーターの「正義漢ヅラ」にはウンザリということだった。
いったい何が違うんだろう?


そこで思ったのだが、日本のテレビは番組を作る前から「落としどころ」を考えていると思うのだ。
「お涙ちょうだい」という「落としどころ」を先ず設定して、そこに必要な「映像」や「インタヴュー」や「コメント」を嵌め込んでいくという手法。
しかし、そうした手法はもう「決定的に古い!」と言わざるを得ない。そんなものは視聴者にとうに見抜かれている。
テレビはそれを知るべきだ。


海外ジャーナリストの報道の方がずっと優れていると思うのは、ジャーナリストとしての本人の矜持(きょうじ)の差が先ずは大きいとは思うが、「落としどころ」を設定して臨んでいない、ということがあるのではないだろうか。
外国人だから、当然、自国の視聴者に伝えることを考え、国民性の違いを強く意識するであろう。
そのとき「なぜ?」という疑問に、素直に向き合うことになると思うのだ。実はこれこそがジャーナリズムの原点だ。


ところが日本のメディアにはそれがない。「落としどころ」先ずありき。
それは、答えをあらかじめ知った上で試験に臨むようなものだ。


3月15日NHK-BS1放送の『震災後を歩く~海外ジャーナリストの見た日本 ドイツ:マリオ・シュミット』には、涙を禁じ得なかった。
「お涙ちょうだい」ではない方が、涙を誘ってしまうのだ。人が涙を流すのは、真実に触れたときなのだ。

家族を失うという痛手を受けながらも、自分の仕事をし続ける人たち。
いま必要とされているから、それをする。
ただそれだけなのだが、そこに感動を覚えるのは、その当たり前がなかなかできないからだ。
無私であり続けることの、揺るぎない強さ。


本当の人格者は、エリート層の中に居るのではなく、市井の人々の中に居ることを、まざまざと見せつけられた。
中でも、山本ヒデさんという看護師長さんにはLOVE感を抱いた。(*・・*)
人としても、指導者としても、お母さんとしても、本当に立派な方だ。


■『震災後を歩く~海外ジャーナリストの見た日本』再放送
NHK BS1 9:05~9:54
22日(木)『中国:崔永元』
23日(金)『ドイツ:マリオ・シュミット』
(つづき)
民放テレビを見なくなったのと入れ替わるようにして、見続けるようになったテレビ番組がある。
NHK BS1の「世界のドキュメンタリー」である。
僕はここで放送された番組の、たぶん8割は確実に見ているように思う。


とにかく、ドラマよりもずっと面白いのだ。
現実を切り取ったものの方が、ドラマを追い越してしまったと言える。つまり現実の方が、ドラマよりもよほどドラマティックになってしまったということだ。
これがいいことなのか、悪いことなのか。
たぶん悪いことなんでしょうね。現実にドラマティックな要素が溢れているということは、人々が平和に暮らせてはいない、不幸な社会が世界中に蔓延しているということだから。


ドキュメンタリーを見続けて解ったことがある。
一つは、民衆というのは、世界中どこもさして変わりがないのだということ。
何を幸福と感じているのか、何を希求しているのか、何に苦しんでいるのか。
根っこの部分はどこの国の、誰でも一緒。人に変わりはない。
だから、ここにスポットを当てれば、世界中の人々は解り合えるはず。


ところが、それを解り合えなくしてしまう仕組みがある。
それが国家であり、イデオロギーであり、宗教であり、経済圏なのである。
要は「枠組み」だ。
「枠組み」がそこに所属する人たちを規定してしまい、垣根をつくってしまう。
だから人々は解り合えない。それどころか、むしろ敵対する。


そして、「枠組み」ありきで発想することを当然と考え、「枠組み」を作ることを使命とし、「枠組み」の維持に情熱を傾ける一部の人たちがいる。
それぞれの「枠組み」の指導者である。
民衆は、こうした指導者によって支配され、指導者層(つまりは支配者層)にとって都合のいいような教育(実は洗脳)がなされ、家畜化されてしまう。


マスメディアとは、そういう家畜を飼いならす道具なのである。
外に向かっては「枠組み」を強調し、内に向かっては支配者層にとって都合のいい「幸福論」を説き、時々ガス抜きのための「興奮」(娯楽)を与える。そうやって洗脳していくわけである。


昨年の6月、僕はフィリピンの語学学校に一ヶ月ほど行ったのだが、そこで韓国人の元軍人とこんな話になった。
「韓国の人って凄いよね。日本の国旗を焼いたり、首相の写真を踏みつけたり」
「いや、あれは一部の人なんだ。大多数の韓国人は日本に憧れを持っていて好きなんだよ」
「へーそうなの。でもTVで見る映像はそんなのばっかりだよ」
「そんなこと言ったら、韓国だって同じだよ。日本人の嫌韓の人のデモとか、そんな映像ばっかりだよ」
「そうなんだ。日本じゃおばさんなんか韓国ドラマのイケメンに夢中だよ。日本人の男なんて弱っちくて人気がないんだよ」


パンとサーカス」(大衆には「喰いもの」と、怒りのエネルギーを解消させる「興奮」を時々与えてやりさえすれば、簡単に支配ができるんだぜ、というローマ帝国が用いたノウハウ)は、今も生きているのだ。
「大衆なんてアホなんやから『パンとサーカス』さえ与えておけばそれでええねん」ちゅうわけだ。
だから、「パンとサーカス」に、簡単に引っ掛かっちゃいけないんだよ。
「サーカスを楽しむな」とは言わない。
でもその背後にあるものを見抜かなくちゃね。


もう一つ解ったことは、ドキュメンタリーを見て初めて知ることと、日常のニュース報道との、真実に関するあまりにも大きな隔たりだ。
ニュースは真実を伝えない。所詮、国家の枠組みの中で、情報統制されたものだから。
福島原発事故の報道を思い出してもらえば、それが如実に解ると思う。
対して「ドキュメンタリーが真実を伝えている」とは必ずしも言い切れないが、「真実に迫っている」とは言えると思う。


ドキュメンタリーというのは報道とは違う。そこには、それを作った人の「作家性」が入り込む。つまり現実を切り取る「視点」だ。
僕は、だからこそ、誰が撮って編集しているのかも解らない報道よりも、信憑性が高いと思う。(もちろん反対のリスクもあって、森達也さんなんかはフェイク・ドキュメンタリーを創って、そのことを実験しているのだが)


だけど、「真実」と「事実」は違う。「真実」とは「事実」の背後に隠れたものだ。
現実を切り取った瞬間、そこに定着させたものはすでに「事実」ではないわけで、重要なのは「真実」だ。
作家が「真実」を追究していないのであれば、やはりそれなりのものしか映像には写らない。今の観客はそれを見抜いてしまうと思う。


ところで、そうやってドキュメンタリーを見続けた結果、困ったことが起きた。
フツーの人とは持っている情報の質と深さが、著しく乖離してしまったのだ。
たとえば、昨年の11月26日に放送された『21世紀の戦争 サイバー攻撃の恐怖』というドキュメンタリー。
これは「スタックスネット(STUXNET WORM)」という新種のコンピュータウィルスによるサイバー攻撃の全貌を描いたものであったが、いったいどれくらいの人がこれを観て、またどれくらいの人が関心を抱いたであろうか?
僕などは「こりゃあ、どえりゃーことだ」と思い、ゾッとしたのだが‥‥。


「スタックスネット」の話というのはこうである。
2010年、かねてから核開発が疑われているイランのナタンズ核燃料施設が何者かにサイバー攻撃された。
これは、ドイツのシーメンス社製核濃縮プラントの制御を不能にするウィルスで、しかもそれはナタンズ核燃料施設だけを標的に作動するように設計されていた。


ナタンズ核燃料施設は、こうしたサイバー攻撃を予測して、外部とつながるネットワークは持っていなかった。
ところが攻撃をしかけた側は、まず世界中にこのウィルスをばらまき、これに感染したコンピュータからUSBなどのメディアを経由し、独立してあるナタンズ核燃料施設にもいつか感染が広がるだろうと考えた。そして実際、そうなった。
イランが、そんなもの「要らん」と言っても、通用しないのだ。


幸いイランは、大惨事に至ることなくこれを防ぐことができたのだが、ウィルスを調べてみると大変なことが解った。
この「スタックスネット」はセキュリティホールを4箇所も狙ったもので、シマンテックなどの対策機関もお手上げの、事実上対策不可能な高度なものであったという。
そして、このウィルスのクォリティの高さや開発に至る資金量を考えたら、そんなことをやれたところはあそこしかないという結論に達する。


「イスラエル軍」である。
番組では、これをイスラエルの仕業であるとは断定していなかったが、シーメンス社のあるドイツ政府はイスラエルの仕業と言い切り、イスラエルの関係者も明確に否定はしなかった。
しかし状況から見て、「イスラエル軍」の仕業であったことは疑いようがない。


・対策不可能な新種のコンピュータウィルスの出現。
・いまや核施設を狙って破壊できることの証明。(当然、爆発や放射能汚染が起きる。だから攻撃用の核爆弾を持つ必要がない)
・国家という存在によるテロル。
・戦争という概念の修正。
・アメリカも知り得なかったイスラエルの暴走。
・しかも国際的ハッカー集団「アノニマス」がこの「スタックスネット」のコードを手に入れたと発表。(核を手にしたと同じ意味になる)


こういった大問題が「スタックスネット」には全部含まれているのだ。
イスラエルからはイランは遠過ぎて、戦闘爆撃機による破壊活動は行えない。(途中で燃料切れになり、空中給油機を必要とする。またシリアかイラク、あるいはサウジアラビアの上空を通過しなければならない)
それだったら、サイバー攻撃の方が、はるかに安上がりに済むし、実行性も高いのだ。
まさに21世紀の戦争概念を変えた出来事だったわけである。


「こりゃあ、どえりゃーことだ」と思った僕は、そこから「なぜ?」という興味を膨らませてゆく。
すると、ウィルスのこと、シーメンス社という企業のこと、モサド(イスラエルの情報機関)のこと、アメリカとイスラエルとの関係、アメリカ社会にいるユダ人のこと、さらにはパレスチナ問題から、ユダヤ人とはそもそも何か、そしてモーセやエクソダスのことまで調べるということになっていく。
こうなると、フツーの人とは、持っている情報の質がかけ離れていってしまうのだ。


なんにも知らない人に「2010年にさぁ、イスラエルがイランの核開発施設にサイバー攻撃しかけたんだぜ。それでその暗号を解読したハッカーも出て来たんだよ。このウィルスがあれば、原子力発電所を狙ってテロもできるんだぜ。核爆弾不要で、安上がりに敵を核攻撃できるようになったんだぜ」と言ったとしよう。
まず最初のひとことで、フツーの人は、「こいつアホか?」と思うであろう。
そこでさらに、モーセだのエクソダスだのまで話題に出したとしたら、「この人、新興宗教に洗脳されているのかしら?」と思われるであろう。


だから、深い情報を知れば知るほど、共通に語り合える人が少なくなって、孤独になっていく。
昨日も、最近ご無沙汰していたある会合の主催者から電話があって「なんで、最近出て来ないんだ」と。
こっちは(出てもつまんないから)だけなのだが、「そうやって、社会に背を向けていないで‥‥」って言われてしまった。
(いや‥‥社会に背を向けているわけじゃないんだけど‥‥そうじゃなくて‥‥)
真正面から社会を深く見つめようとすると、逆に、世間からは「背を向けている」と言われてしまうのだ。


やっぱり、AKB48とか、なでしこジャパンとか、石川遼くんとか、株が上がったとか下がったとか、犬とか猫とか、そういう(僕にとってはどうでもいい)ことを言っていないと、世間から「背を向けている」ということになってしまうらしいのだ。
一般ピープルからすれば、スタックスネットとか、イスラエルとか、パレスチナ問題とか、アノニマスとか、そっちがどうでもいいことになっちゃう。
そんなこと知ったところで、オレの収入と関係があるのかと、今晩のおかずが一品増えるのかと。
 

僕のブログの更新回数が少ないのは、決して考えていないわけじゃなくて、考え過ぎて、調べ過ぎて、そこで得た情報量と、書くスピードが全く合わなくなっているためなのだ。
考えたり分析しているうちに、こんなこと言ってもどうせ信用されないだろうな、という思いが高じて来て、ひどいときには失語症になってしまうというわけ。


「スタックスネット」のことも、僕は「どえりゃーことだ」って思ったけど、同じように思った人、どれくらいいるのかな?
でもまあ今は、どこかに理解してくれる人もいるかもって、楽観的にとらえている。
少しずつだけど、一般ピープルの意識も変わって来ているしね。
続きを読む
新聞をやめて5年、雑誌購読をやめて4年、民放テレビを観なくなって2年、NHKニュースを観なくなってから1年が経った。(震災事故のときはさすがにウォッチしましたが‥)
それで困ったかって? ぜーんぜん。
情報鎖国に陥ったかって? ぜーんぜん。


どうでもいいような情報と、ウソ情報を遮断したら、以前よりもっと深い情報を知ることができるようになりました。
逆に言うと、世の中で飛び交っている情報のほとんどは、どうでもいいようなことと、ウソばかりだということになる。
さらに言えば、それらの産業に携わっている人々の大多数は、どうでもいいようなことと、ウソをこしらえることに情熱を捧げているということになる。


ネットの世界では、最近「マスゴミ」という言い方が定着したようだけど、僕はそこまでは言いたくないナ。
働いている人それぞれの事情がおありだろうし‥‥。
でも、本来どうすべきなのか、どうあるべきか、ということは、メディアに携わる者として真剣に考えてもらいたいと思う。


オレにとっては、AKB48なんてどうだっていい。
そう簡単に、秋元康の戦略には乗らないよーだ。スターウォーズだヨーダ。(あ、いかん、このギャグ前にも使った!)
巨人、大鵬、卵焼きの時代が終わってから、国民的アイドルなんて、とっくにいない。
村上龍さんも言っていたけど、今の時代に流行語大賞なんて無意味。
「流行」を強調する人たちは、それを死守することで「業界を守りたい」だけなんだ。


NHKニュースは観なくなったのだが、代わって観るようになったのがBS1の『ワールドWave』。
これを録画しておいて1.5倍速でダーッと観る。この中で気になったアジアの話題があれば、さらに『ワールドWave アジア』でチェックする。
2年これを続けたら、いかに日本のニュースがすっとんきょうなものであるかが、よーーーーーく解った。
とにかく、隔絶しているんだ。確実に隔絶している。


第一に、外国のニュースを伝える量が圧倒的に少ない。日本にとって外国とは、一にアメリカ、次に中国と韓国まで。ヨーロッパや中東なんて、日本にとっちゃファーウエストなのよね。(ヨーロッパからは、やっぱりファーイーストだけど)


第二に、外国のニュース比率が少ないということは、ほとんどが国内の話題で占められるということでもある。
この「内向き」目線は、世界の国々と比べると、すごーくファニーな感じがする。
別な意味で、アメリカもまた異常に「内向き」な国。
日本は島国根性で内向きなのだが、アメリカは傲慢なうえの内向きなの。アメリカ人は他国になど関心がないのだ。「オレはジャイアン」という意識が抜けない。


第三に、政治のニュースは「政局」ばっかり。ようするに、どうでもいいことばっかり。
でもヨーロッパはちゃんと政治をニュースにしている。これは狭い地域にたくさんの国がひしめき合っていることと、アフリカ、アラブ、イスラエル、ロシアが距離的に近くて、他国で火事が起きれば火の粉がすぐに降り掛かってくるからだ。


ここでも日本同様にファニーなのはアメリカ。アメリカの政治ニュースって、セックス・スキャンダルばっかし。大統領候補者同士がそういう中傷合戦をやるのね。よく飽きないなぁって思う。
なにが「民主主義」だっつーのよ。大統領候補者同士がセックス・スキャンダル合戦するなんてお下劣な国は、アメリカだけだと思うよ。


第四に、日本のマスメディアの報道内容はどこも一緒。記者クラブ制度って、ネタが同じで、結果的に情報統制してるってことだものね。ジャーナリズムなんて、ありゃしないよ。
そういう意味では、中国やロシアとさして変わらない。


ロシアって変わっているんだ。どんなニュースでも必ずメドベージェフかプーチンが登場してきて、庶民に直接意見を聞く姿と、机で向かい合って閣僚に指示する姿ってのが、毎日のように映し出されるのね。
<庶民の皆さんの声には耳を傾けますよ。それで大臣には直接私が指示しましたよ>ってことが実に単純で解りやすいの。まあ、ミエミエだね。


日本のニュースでは、街の話題は街の人しか登場しないけど、ここに必ずひょっこり野田さんが表れて、おかず横町でメンチカツ売っている人と話をするって感じなの。
その後すぐに、安住財務省を呼び出して「おい、おかず横町のおばはんが、肉の値段が高騰しているってぼやいていたぞ。すぐなんとかしなさい」って指示する、そんな感じなのね。


えー、よくこんなに毎日庶民の間を回る時間が取れるなぁ? スケジュールどうなっているんだろ? と思っていたけど、たぶん一週間分溜め撮りとかしているんでしょうね。
それとプーチンが、ソビエト解体後、ロシアのメディア王となった人物を国外に追い出し、メディアを乗っ取ったんだ。だからロシアのメディアは事実上国営、っていうか、プーチンの私営みたいになっている。


中国もすごい。中国は中東で革命が勃発し、その背景にインターネット・メディアが大きく関わったことを危惧して、最近、情報統制を強めているのね。ひとたび反体制的と判断されたら、プロバイダは即刻お取り潰し、危険人物は逮捕されてしまう。
中国国内で起きている暴動のニュースなど、中国メディアにはもちろん流れない。


でもオーストラリアとかヨーロッパのニュースにはこれがちゃんと報道されるんだ。中国国内の暴動のニュースが、映像つきで。
だから、ワールドニュースをちゃんと見ないとダメだっていうわけさ。
日本の国内ニュースだって、外国で報道されているニュースを見た方が、まだ真実に迫れる可能性があるよ。
日本のニュースなんて、見る必要性なし。むしろ有害。インターネットでアウトラインをチェックすれば充分。


オーストラリアは、日本からすればアジアって感じがあんまりしないよね。南半球にあるし、白人が大多数を占める国家だし、イギリス連邦(Commonwealth of Nations)に属する国だし。
でもオーストラリアのニュースは、広くアジアをカヴァーしている。中国、インドネシア、フィリピン、タイ、ヴェトナム、インド辺りまでが、トップニュースとして扱われている。日本はどっちかっていうと悪者扱い。(クジラをとるから)


こういう感覚が、ぜんぜん日本とは違う。
日本がアジアの盟主として留まりたいのなら、オーストラリアのこの報道姿勢を見習わないと。でももうムリだろうなぁ。
日本の体質は変わらないね。
AKB48の方がいいのさ。


12月30日に特番放送された『サラリーマンNEO』は、一地方テレビ局を舞台にしたものだった。
この局では、大晦日にひさびさに全国ネットで配信される番組が制作できるってことで、みんな張り切っている。
それは、地元の動物園にいる立ち上がるキツネ「コンちゃん」が全国で話題となっていたから。おかげで「コンちゃん音頭」という唄も大ヒット。
ところがその「コンちゃん」が、本番直前に急死してしまう。さあ、どうしたらいい?


コント(というか舞台劇だね)はよく出来ていたけど、笑えなかったナ。
ギャグって、それを揶揄する元がしっかりしていないと、ギャグにならないの。
でもテレビのお話は、生々し過ぎて、もはや揶揄する対象じゃないのね。
チクリ! ってのが、もはやイジメみたいになっちゃって、痛々しい感じまでしちゃう。
NHKがこういうコントを放送したってことに、テレビの自虐を感じたね。

(続く)

PS.「コンちゃん音頭」で、急に、吉永小百合の『奈良の春日野』を思い出した。
とにかく聞いてみて。なに、このシュールさは?



あ、いかん! オレがどうでもいいこと語っている。

プロフィール

imanari munekazu

Author:imanari munekazu
このコーナーでは、時事の話題に触れながら、意見、雑感等を不定期に発信してまいります。

リンク

最新記事

カテゴリ

月別アーカイブ

検索フォーム

RSSリンクの表示

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。