LOTUS STUDIO BLOG
これから何が起こるか。我々は何をすればよいのか。
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お笑い芸人によって、「イジる」という言葉が一般化しました。がしかし、これは「芸」なのでしょうか?
落語にしろ漫才にしろ講談にしろ、今テレビで「芸」を見ることはほとんどできません。レベルが落ちたなぁ、と思います。これでは芸人ではなくて、下~人です。赤塚不二夫さんが生きておられたら、さぞや嘆かれたことでしょう。

昔は「芸」を競っていました。「芸」というのは、客も教養がないと面白くはない。どこが面白いのかさっぱり解らないものです。芸人と客の関係は、そのように切磋琢磨しながら育っていきました。

でも今じゃ「よってくだんの如し」と言ったところで、なんのことか全然解らない。落語のサゲがサゲにならない。サゲの妙に「なるほど、上手い!」って膝を叩けない。(「膝を叩く」ってのもたぶん死語かナ?)
それに比べれば「イジる」は誰にでもすぐに解るわけですね。

これにはテレビの事情が絡んでいます。安い制作費で視聴率を稼げる番組を作らないと、スポンサーが集まらない。そこで一山いくらで大勢を確保出来る吉本タレントを使い、安易に番組を作る。精妙な台本なんてものも工夫しなくていい。イジられ役をひとり設定して、周囲がよってたかってイジれば、それで番組ができちゃうんだから。

「イジる」というのは、「弄る」(つまりもてあぞぶ)から来た言葉だと思いますが、「イジめ」を連想させませんか? こういうことが堂々と「OK」なんだと子供たちに刷り込んだら、大変なことになると思うんです。イジられ役のタレントというのはそれがキャラクターであって、そうすることでお金を貰っている人です。でも子供はそうじゃない。

あ、そうそう。小松政夫さんは子供のころ教室で先生から叩かれると、「イテーな、イテーな、イテぇーなー」とギャグにして周囲を笑わせていたそうです。でもそんな技が瞬間的にできるのは、天性の素質があったからでしょう。イジられて「へへへ」と笑いとばせる子もいれば、そうでない子もいる筈です。(私も、パンツ脱がされたり、さんざんされたなぁ)

お笑い芸人の方も、そういう影響まで考えて欲しいと思うんですよ。
芸人なら、どうか「芸」を磨いてくださいまし。
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9月1日放送のNHK Eテレ『新世代が解く! ニッポンのジレンマ「僕らの楽しい資本主義」』。いやぁー、とっても面白かったです。
参加者の皆さんいずれも素晴らしい論客ばかり。何より「他の人の意見をちゃんと聴く」姿勢を皆さんがお持ちであるのには、いたく感心しました。若者って一人よがりのところがあるものだけれど(自分はそうだったなぁ)、みんな人格が出来ている。参りました。


資本主義がもはや「成長」のモデルだけでなく意味までを失っている。でも競争論理だけは生き残っているために、社会保障がなし崩しになってきている。このことは、イケダハヤトさんが危惧する通り大きな問題だと思います。
こうした中で、最低限の安心・安全は確保しながら、楽しく、創造的に生きていけるようにするにはどうしたらいいでしょう?


高木新平さんが「国のオッサンたちは未来のことを何も考えてくれない」と仰るのはその通りだと思います。
私よりちょっと上の「逃げ切り世代」を見ますと、ゴルフ、海外旅行、利殖など、自分と家族のことで忙しく、若者の未来のことなどちっとも考えていないように見受けられます。


古市憲寿さんが「若者が社会を変える義務はない。そんなものは老人がやればいい」と仰るのも、まったくその通りではありますが、残念ながら「逃げ切り世代」はそんなことは考えようともしません。その後の我々、通称スキマ世代は、全然金がない。
そこでやはり、高木新平さんが仰るように、若い世代のリーダーたちが、それを創っていかざるを得ないのではないでしょうか?


いわゆる「頑張れ」論ですが、私はこう思います。
社会の構成員は、どの世代で切っても、次のように分かれる。

1)自ずと頑張れるリーダー
2)スキルを示すことで、頑張れば後を着いて行けるフォロワー
3)頑張りたいんだけど、うまく頑張れない人
4)頑張る気力もなくしてしまった病的な人

古市さん言うところの「起業で成功しやすいのは、一流大学を出て、一流企業に就職して、スピンアウトした人」というのは、形としては確かにそうなのでしょうが、その方たちは、もともと「自ずと頑張れるリーダー」だった人だと思うのです。
今回の討論に参加された方たちも、みなそうした人です。


しかし誰でもがリーダーになれるわけではありません。
そのようなときに、今の若者に、ただ「頑張れ」と言うのは酷だと思います。
生まれたときからあらゆるサービスを消費ということで教えられ、コンビニがなければ生きられないといった世代に、いきなり「頑張れ」と言っても、それまで「起業」を習ったこともない。学校の先生たちは、みんなサラリーマンですからね。


古市さんは「豊かな親を持ち、そこまでお金に執着しなくても生きていけるようになった」と、現代の若者気質を説明されます。
それは、社会学的には当たっていると思いますが、それだからこそ、親が豊かな人と豊かでない人とでは、子世代に著しい格差が生じていると思います。これを、とても一括りにして語ることはできません。豊かでない親がどんどん増えていますからね。


それと、番組を見ていてもう一つ私が感じたのは、少人数で気の合った友達とユルユル仕事をするといったワークスタイル。私もそうして来ましたし、そこに異論は全くありません。
しかし多分、そういうワークスタイルで現在「喰えている」とすれば、その背景には、利潤追求型の従来企業やマスの経済システムがあるおかげではないでしょうか。そこから完全に逃れて生活することは、まだまだ難しいのではないでしょうか? そこには、「汚いことは他の方がやってくださいね。私は上澄みで生きますから。」という矛盾を多少感じるのです。


利潤追求を第一義とせず、好きな者同士が一人ひとりの創造力でネットワークしながら仕事をし、シャア精神でみんなが平和に成り立つ。
そのような社会であるためには、今の日本は、ただ生きていくためだけのファンダメンタルなコストが掛かりすぎます。社会システムがまだ革新していません。


息をしているだけでもべらぼうなコストが掛かるので、そこで、どうしても人々はそのコストに掛かる金を得るために、無理をして働かざるを得ない状況です。ここで、親が豊かな人と豊かでない人との格差が、もの凄く響いてきています。


どうすればいいのでしょうか?
私は、第一に、信用できないオッサンどもから逃れて、一人で生きていけるスキルを身につける教育を若い世代に施すこと。
第二に、ただ生きていくために掛かる生活コストを、劇的に下げる社会システムを造ること。
その両方が必要だと思います。
そして、それを成し遂げるのは、面倒くさいでしょうが、若い世代の皆さん方のようなリーダーにおいて他にないのではと思いました。
NHK BS1で『dear hiroshima』というドキュメンタリーと、関連討論番組の『dear hiroshimaをみて』を見ました。
『dear hiroshima』は、素材が優れていれば、どのように撮っても良いドキュメンタリーになるという典型のような作品で、なんといっても写真家石内都さんが撮った、広島で被爆して亡くなった少年少女たちの遺品が圧倒的でした。


ドキュメンタリーは、カナダのバンクーバーで開かれたこの石内都さんの写真展を追ったもので、こういうアプローチでもドキュメンタリーになるのか、とちょっと意表を突かれました。
監督は、日本生まれで日本育ちのアメリカ人女性、リンダ・ホーグランドさんです。


石内都さんの写真は、広島の原爆資料館に保管されている遺品を撮っただけの(と言っても、もちろん計算し尽くしているわけですが)撮影用語で言えば「ブツ撮り」作品です。
がしかし、見る方は、どうしてもそれを身につけていたであろう今は亡き人物のことを想像せざるを得ないのです。


これには凄いものがあります。写真そのものよりも、それを見ている側の想像力が何倍にも膨らんでしまう。
そういうスイッチが入ってしまうのです。
自分の大きな想像力が加わることでやっと一枚の写真が完成する、といった趣です。


芸術作品は多かれ少なかれそういう面を持っているわけですが、この写真ほど、見ている側の想像力が大きく膨らむ作品はそうそうないでしょうね。
このことは、欧米人に原爆の悲劇のまことを知ってもらう上で、大きな力を果たすだろうと思いました。


人種や国籍がたとえ違っていても、イマジネーションを掻き立てられない人はいないのではないでしょうか? 頭が洗脳されていても、自分の想像力の方が、きっと打ち勝つだろうと思うのです。
そういう意味で、着想は秀逸ですし、それをまたドキュメンタリーにしたことも大いに意義があることだと思います。


『dear hiroshimaをみて』は、監督のリンダ・ホーグランドさん、石内都さん、それに広島平和文化センター理事長のスティーブン・リーパーさん、そして作家の田口ランディさんの四人による討論番組です。
この中で興味深かったのは、「アメリカの感覚麻痺」と「グラウンド・ゼロ」に関する発言でした。


「アメリカの感覚麻痺」について、先ずスティーブン・リーパーさんがこう発言します。
「『僕らは善、あの人たちは悪だから、世の中をよくするためには善の人が悪の人を殺せばいい』そういう考えで(アメリカでは)たくさんの人が今でも動いている。アメリカ人は人の痛みを無視するという能力は特に発達している。全世界でいろんな人に本当に苦しみを与えている国なのに、それを無視するように教えられる。」


それに対して、リンダ・ホーグランドさんがこう付け加えます。
「無視するには特殊な心理的な操作が必要であって、それはアメリカが最も得意としている特権、アメリカ人が誰よりも優れていて、誰よりも偉くて、アメリカ人が決めた民主主義と自由はGoodで、それ以外のものはBad。そういうアメリカの心理的な幼稚化みたいなものはどんどん進んでいると思う。」と。


「グラウンド・ゼロ」問題については、たぶん日本人でも知らない人が大勢いるのではないでしょうか。
リンダ・ホーグランドさんは「9.11に関しては私はショックではなかったが、その翌日から、貿易センタービルの跡地を『グラウンド・ゼロ』と呼んだことにはびっくりした」と言います。


「グラウンド・ゼロ」は、もともとはネバダ州砂漠で世界初の核実験が行われたときにその爆心地に対して付けられた名称です。
これが転じて、広島、長崎の原爆爆心地も「グラウンド・ゼロ」と呼ばれるようになったのです。


ところが9.11の直後、この「グラウンド・ゼロ」を貿易センタービル跡地に対し意図的に使うことにより、広島、長崎の痛みをマスキングする一方、「グラウンド・ゼロ」=「アメリカ人が抱く9.11の痛み」にすり替えがなされたのです。


今、跡地はメモリアル施設になっていて、そこでは9.11の犠牲者の遺族が「グラウンド・ゼロ」についての説明をボランティアで行っています。
9.11がアメリカの自作自演であったことは、たくさんの証拠によりもはや自明であるのに、その犠牲者の遺族を愛国者に仕立て上げてしまうアメリカ。


リンダ・ホーグランドさんが言うように、このドキュメンタリーを見たアメリカ人が、少しでも気づいてくれたらいいのにな、と思いました。
NHK朝ドラの録画予約をそのままにしていたので『梅ちゃん先生』を見ました。
でも2回めでダウン。役者さんたちがヘタ過ぎます。どなたとは申しませんが。
『カーネーション』は、上手くて味のある人ばっかりだったのにね。いったい何が違うんでしょう。

ドラマでも歌でも、ヒット狙いは、みんながよく知っている最大公約数をめざそうとするのです。
でも、本当にヒットしたものは真逆です。
たった一人のため、あるいは自分の中の抑えられない衝動を表出したとき、そこに何か普遍性があって、じわじわとヒットしていくのです。

最大公約数をねらったドラマや歌が、イヤらしくて、つまらないのはそこです。
共感が広がっていくのじゃないんです。最初から、マーケットのここを食べてやろうと目論んでいるイヤらしさです。
でもイヤらしい人ほど、大プロデューサーだって言われちゃう世の中なんでしょうね。
NHKのBSシネマで『チャイナ・シンドローム(The China Syndrome)』をやっていたので、複雑な気持ちでこれを観た。
日本公開は1979年。公開時には見逃していたのだが、その当時「チャイナ・シンドローム」という言葉の意味がかなり一般に浸透したことを覚えている。

チャイナシンドローム

要するに、アメリカの原発で炉心溶融が起きると、溶けた燃料が圧力隔壁を突き破って、地球の裏側の中国まで達するぞ、という意味である。
それほど、炉心溶融(メルトダウン)は恐ろしいんだぞ、というこれは警告の映画であった。
アメリカでは、映画が公開されたその日から12日後に、あのスリーマイル島原発事故が起こり、あまりのタイムリーに、映画も大ヒットしたということだ。


映画は、原発の技師で原発稼働コントロールの責任者であるジャック・ゴデル(ジャック・レモン)が、手抜き工事の不正を知り、これが重大事故につながるかもしれないと危惧、内部告発しようとして会社から睨まれ、最後は殺されてしまうという悲劇を扱っている。(ジャック・レモンって、やっぱりいい役者だなぁ。コメディも出来るし)
ジャック・ゴデルは、自身が開発に加わった原発を愛しており、技師としての職務に忠実であろうとするのだが、金もうけ優先の会社はそれを疎ましく思い、何もなかったことにして彼を葬り去ろうとするのである。


図式は単純だが、その単純なことが、今回の福島原発事故でもそのまんま起きている。
事故を隠そうとする電力会社と政府。その陰で、犠牲になっている人々。
人間て、懲りるってことがないんだね。


複雑な気持ちにさせられたのは、映画『チャイナ・シンドローム』では、メルトダウンが<未知の、なにか恐ろしいこと>として扱われていたのに、福島第一原発では、それが実際に、三基も同時に起きてしまったことだ。
つまり、<おそろしい>の3倍が、現実に起きたのである。


それなのに、現在の、この平然さはなんなのだろうか?
地震直後には、日本人の冷静さが、世界中で(特に中国で)讃えられたのだが、
今の平静さは、いくら平成時代だといっても「おとなしいにも、ほどがある」のではないだろうか?
こうしている間にも、放射能汚染の連鎖は、静かに深く、浸透していっているのである。
チェルノブイリで今起きている問題が、日本で、確実にこれからやってくるのである。


除染」などと言っても、放射能がなくなるわけではない。
どこかに移していくだけで、「移染」と言った方が正しいのではないのかな?
捨て場所などどこにもないのだ。でもそれを政府は言わない!
政府もマスコミも、「除染」はやめて「移染」に言葉を改めるべきだ。


東日本に住む人間は、もう、長期にわたる内部被曝は避けられない。
政府はこの先「許容量」という数字を、だんだんとごまかして行くことであろう。
年金支給開始年齢をだんだんと上げて行くことと同じである。
普天間基地移設問題やTPPと同じである。
「小出し作戦」で、なんとなく、「そういうもんだ」という合意形成を図って行く。


そのことに、従順でいいのだろうか?
おとなしいにも、ほどがあるぞ! 日本国民。
世界中で、大規模デモと暴動とテロが起きているというのに。


日本では、中国漁船の体当たり問題を、国民に知らせずウヤムヤで終わらせようとしたけれど、
韓国では、中国漁船の違法操業に頭にきた人々が中国国旗を踏みつぶしたり、中国漁船の模型をぶっこわしたり、政府を弱腰だと街頭でも非難している。
「非は相手側にある」と、いつもは必ず強弁する中国も、さすがに今回は「韓国政府と共同して事態収拾を図る」とトーンダウンした。
韓国がうらやましい。さすがテンション民族である。
これじゃ喜怒哀楽の激しい韓国ドラマに、日本のドラマが勝てないわけだよ。


「和」の精神は、日本人の美徳であろうが、しかしそれによって「真実を見ようとしない」というのは、これからの時代に、大きな禍根を残すことになると思う。


Frying Dutchman“humanERROR”良かったら聴いてみてちょ。(映像はありません)
ぜんぶ言えてる。すごいなぁ。相当勉強しているね。



ところで、東京電力の大株主に「東京都」が鎮座しているのだが、都民である我々も、今回の事故の加害者ということになってしまうのであろうか?
東京都は我々が収めた都税で株を買ったわけだけど、東京電力の株主総会には、東京都から誰が出ているのであろうか?
大株主として、議決権を行使している人は誰なのであろうか? 都知事なのかな?

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このコーナーでは、時事の話題に触れながら、意見、雑感等を不定期に発信してまいります。

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