LOTUS STUDIO BLOG
これから何が起こるか。我々は何をすればよいのか。
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「老老介護」や「少子高齢化」といった現代問題を映すキーワード。私たちは、ある概念を伝えるためにそうした言葉を作り、会話や文章で流通させています。


しかし一方で、そのようにキーワードで一括りにしたために、その言葉を聞いただけで何か解ったような気になって、そこから多くのものがこぼれ落ちていることにはなかなか気づきにくいようです。


「老老介護」も、いま実際にその問題に直面している人と、そうでない人とでは、解釈にもの凄い温度差があるのではないでしょうか?


人は、自分自身の問題とならない限りなにかに注意を向けませんので、致し方ないことではあります。しかし「少子高齢化」という人口の逆ピラミッド化が急速に進行していることは疑いようもなく、「老老介護」問題はいずれ誰しもが直面しなければならない差し迫った課題となっています。


こうした問題の解決手段として「介護サービス」というキーワードもあるのですが、これもまた実態をマスキングするように働いている部分があることは否めません。
「介護サービス」は必要です。しかし「サービス」の部分が、私にはどうしても引っ掛かるのです。


「サービス」という言葉にはいったい何が含まれているのか?
一つにはサービスメニューの提供と、それへの対価という面でしょう。つまりビジネスです。ビジネスですから競争があり、客は各機関が提供するサービスの優劣を比較する。
一方、運営する方はビジネスを成功させるために、効率化、集約化を進める。結果として「介護サービス」が、なにか居酒屋チェーンのような格好になって行っています。


私はこれを危惧します。「介護」は、けっして技術と労働対価だけでできるものではありません。どうしても「愛」が必要になってくる。ところが経営が大規模化したり、投資家が入り込んで来たときに、その「愛」の部分をちゃんと見ることができるのでしょうか? 現状では「愛」の部分は、個人的な資質にただオンブしているように思われて仕方ありません。


そうしますと、「愛」はババ抜きのようなもので、金で買えばよい、引き受け手がいなければ外国人に頼めばよい、とそのようになってはいないでしょうか?


そこで私の提案です。「介護」という問題に直面したときに「介護サービス」ではなく、真っ先に「介護チャレンジ」と「介護愛」というキーワードを思い浮かべてはどうでしょう?


人が成長を本当に実感できるのは、世間で言うような「社会的な成功」といったことではなくて、実は「当たり前のことが当たり前にできるようになること」にあります。
地位、名誉、財産は関係がありません。「当たり前のことが当たり前にできる人」ほど凄い人はいない。しかし若いときにはこれが解らないわけです。


それが、ある程度の年齢に達し、自分も「介護」や「看護」をしなければならなくなったときにどう考えるか?
「困ったな」「イヤだな」ではなくて、自分を成長させてくれる「介護チャレンジ」の瞬間が来た。よし「介護愛」という未達の課題を自分の中に育もう。しっかりとマスターして、やりぬいて、自分を成長させてやるぞ。一つそのように思いたいわけです。
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一人息子が久しぶりに帰って来て、
「道を誤ったなぁ。俺も東大へ行って、社会学者になればよかったかなぁ」
と突然言うのです。
「なにバカなこと言ってんだい、偏差値46の男が」
と言い返して、二人で笑ったんですけれど。


息子がそう言うのは、同世代の気鋭の社会学者、古市憲寿(ふるいち・のりとし)さんに最近随分ご執心なようだからです。
古市さんは、前に私がブログにも書いたNHKの『僕らの楽しい資本主義』という番組にご出演されていました。そこでは、彼の変わった「会社生活」も映されていました。


さてそういうわけで、息子から『絶望の国の幸福な若者たち』と『僕たちの前途 』という2冊の本を借りて読んでみました。
私も、今の20代だけではなく、30代、40代、それぞれの年代にとって現代社会がどのように見えているかがとても興味があります。解らないし知りたいからです。


同年生まれの我が息子が古市さんの著作にご執心なのは、きっとそこに共感できるものがあったからなのでしょう。
でも私には、都会のマンションで生活している若者が室内にこもって考えた研究、という感じが強くして、仕方ありませんでした。
息子だって東京育ちです。その意味で、同じ感覚なのかも知れません。


それが悪いと言っているわけではありません。
社会学者としての古市さんの分析に対してあれこれ言えるような知性を自分は持っていませんし、やっぱり頭のよい人だなぁと思います。
でも2つの点で、異論があります。(もしかしたら、私の理解が足りないのかも知れませんが)


一つは、幸福感の定義といったようなものです。古市さんは20代ですので、当然バブルも高度成長期も、その前の貧乏だった時代も、実感としてご存知ではありません。そこで統計資料を駆使して、現代の若者と70年代くらいの若者と、どっちが豊かだったかという比較をされているのですが、これがちょっと違うと思うんです。


物が「ある時代」から「ない時代」を見ますと、「ある時代」の基準で考えますので、どうしても不便とか今より豊かではなかったという判断をしがちです。
でも「ない時代」には、「ある時代」が未経験ですので、今のその状態が不便であるとか、貧しいとかは思わないのです。「ない」のがみんな当たり前だったからです。


ではその時代の幸福感が何であったかというと、「将来、今よりも暮らしがよくなるイメージ」だったと思うのです。70年代には、まだそれが充満していました。
それは個人としても、社会全体としても、疑いなく持っていたもので、そこにあまり不安はなかったのです。


若者も、今のような「就職できないかも」という最低限の不安はなくて、どこの会社へ行けるかという選択の問題であったり、時には「俺は就職なんかしないぜ」というヒッピーを選ぶということが出来た時代でした。


つまり幸福感というものは、現在の所有で測れるものではなく、上昇ベクトルの角度によって規定されるものではないか、というのが私の考えです。
バブル時代には、この角度が急激に上がったわけですが、現代ではむしろ下がる方向へ傾いている。ですから、いくら物が豊富であっても、幸福感とはほど遠いのではないでしょうか?


二つめの異論は、働き方についてです。
古市さんは、ご自身が働く有限会社ゼントを一つのモデルに、これからの働き方の可能性を語っておられるのですが、それが普遍性を持つとはとても思えません。
否定しているのではありません。むしろ「働き方」に関してはその通りと思います。


しかし「働き方」とは別の、有限会社ゼントの「ビジネス戦略」は、あまりにも特殊です。類い稀なる才能の持ち主が集まっていること、成長産業の中に喰い込んでいること、B to C ではなくB to B を狙っていると公言していること。
これらは、今の大多数の若者が置かれた状況とは、あまりにも違い過ぎると思うのです。


私はむしろ、『僕らの楽しい資本主義』でイケダハヤトさんが語っていた「僕らはいいんだ、僕らはいいけれども」という言葉に共感を覚えます。
社会全体の幸福ベクトルが下り坂にあるなかで、凡人はいったいどうすればいいのか? 私はそこが重要な問題だと考えています。


●ニッポンのジレンマ
http://www.nhk.or.jp/jirenma/
知り合いの大学生が大学を卒業し、就職することになりました。赴任地はいきなりヴェトナムだそうです。
グローバル化ということが、こんなところにも顕われているんですね。


ところで、初めて就職することを世間では「社会人」になると言いますね。
私は以前からずっと、この言葉はおかしいと思っていました。
では就職できなかった人は「社会人」になれなかったのでしょうか?
あるいは、会社を定年退職すると「社会人」ではなくなってしまうのでしょうか?


会社員になるという働き方は大正時代に入って一般化したもので、明治まではほとんどの人が一次産業に就労するか職人などをしていました。
私の記憶では、1960年代までは「月給取り」になるということは、まだ非常にステータスが高かったように思います。


それまでの不安定な収入状態から定期収入が得られるということと、当時は高度成長期にありましたから就職後も給料がどんどん上がって行った。それによって、物質的には恵まれた生活が送れるようになって行ったのです。


しかし今は状況がまったく違います。初任給も高度成長期に比べて下がってしまいましたし、非正規雇用がもの凄く増えました。
このような時代に、就職すること=「社会人」というのは、ますます変だなという気がいたします。


「社会人」という言葉には、サラリーマンになることが当たり前で、それは正しいことで、そうならない、あるいはなれない人は、はみ出し者といった価値観が、色濃くあるように思うのです。


学生はこうした価値観に完全に支配されていて、サラリーマンが当たり前のようになったのは、近代以降のつい最近に過ぎないということを知りません。
就活産業やマスコミや大学がそのような価値観を前提として打ち立てているからです。
ですから、就職がままならない時代に一人で生きて行く術というものを、誰からも教えてもらっていません。
ここにもう一つの悲劇がある。


私は、赤ちゃんからお年寄りまで、社会に生活している人はみんな「社会人」なのだと思っています。
それぞれが、社会を構成しているまぎれもない部分なのです。
もし「社会人」という言葉を使うのなら、そうした意味合いを持たせないと「社会」というものを間違って捉えることになります。
事実、(故意なのかどうかは分かりませんが)間違って捉えていると思います。


「社会」は、企業が動かしているもので、企業の景気が良くなれば、雇用も増えて、収入も上がって、税収も増えて、万事がうまく回るという幻想が、未だに跋扈している。
実際は、企業が収益を上げても、雇用は増えず、収入も上がらず、税収も増えず、景気は低迷したままなのが現代の仕組みです。


その陰で、年寄りとか、保育園とか、看護・介護とか、教育といったことは、どうしても「社会」の問題とは見なされない風潮になっていってしまう。
そういう懸念が「社会人」という言葉にはあると思うのです。
どうです? 「社会人」って言葉、やめにしませんか?
どこで何をしているのかもよく解らない一人息子(たぶん、麻薬の密売人はやっていないと思う‥‥)が、一週間ぶりにひょっこり帰ってきて、家に入るなりこう言った。
「オレ解ったんだ」
何を言うかと思ったら、
「世間ではAppleのジョブスが素晴らしい人で、Appleも凄くいい企業だと誉め讃えている。誰も批判なんかしない。だけど、そういう表面的に成功とされる企業の裏には、必ず『過酷な労働』というものが隠されているんだってことが‥‥」


(へえー)と僕は思った。
(お前だって、i-Phoneはすぐに新型に機種変更したし、ついこの前までは、ツイッターで「水道橋博士がフォローした」って騒いでたじゃないか。文明の恩恵をたっぷり受けていたじゃないか。でもその裏側があるってことにようやく気づいたってことかい?)


うちの息子は、お茶を容れるのさえもめんどくさがる。薬缶を火にかけ、お茶っぱを急須に入れて‥‥。
そんなことよりも、すぐに自動販売機か、コンビニに走る。
そして呑んだあとのペットボトルや空き缶はぜったいに片付けない。その辺にうっちゃっておく。
洗濯物は洗濯機に放り込むだけ。洗ったためしがない。
家に居る時は一日3回も風呂に入り、周囲をドロドロにして、片付けずに出掛けて行く。
もちろん部屋など、生まれてこのかた一回も掃除したことがない! ただの一回も!


親のしつけはどうなってんだ!


ハイ、あたしです。
スミマセン。自業自得でした。


息子が子供のころ、僕は彼にこう言いきかせた。
「コンビニは便利かも知れないけど。働いている人は不便なんだよ」
「いいかい。『便利』ってのは『不便』と書かれた爆弾を手渡していくことなんだ。『不便』という爆弾には導火線がついててね、誰にも渡せなくなった人のところで、時間切れで爆発するんだ」
「『お得』だって同じだよ。『損』と書かれた爆弾を、最終的に受け取った人のところで爆発するんだ」

解りやすく説いたつもりが、小学生には却って難しくなってしまったのよね。(・・。)ゞ
スミマセン。
だから、我が息子は、今ごろになって、やっと気がついたってわけね。
‥‥気がついても、態度は全然改まらないけど。(・・。)ゞ


僕の甥っ子が、雪国で新聞配達をしている。
その前は、セブンイレブンのアルバイト店員だった。
新聞配達も過酷である。
一日24時間が、新聞配達は12時間の2回転サイクルになるのだ。
午後11時ころから午前5時ころまでの朝刊配達と、午後からの夕刊配達と。
その間に、睡眠とって食事して風呂に入るという生活が延々と続く。


よくやってるな、と思う。僕には到底できない。
その甥っ子が憤慨していた。
新聞配達だけならまだいい。ところが佐川急便のメール便の配達をさせられているというのである。
その新聞配達所は、地方紙の系列店だったが、新聞社の上の方が、佐川との提携を決めてしまったというのだ。
会社の上にしてみれば「うちは戸別の配達網があるし、メール便配達を代行すれば、年間○千万円は転がり込む筈だ」と考えたと思う。


ところが、一通80円のメール便の配達手数料は、5円だというのである。
甥っ子のクルマとガソリン代は自分持ち。
田舎は、家が相当離れているところもあるから、わずか5円の収入を得るために、そこまで往復30分ということもある。しかも今年は、もの凄い豪雪の中をかきわけていかねばならない。
上が考えている「うちは戸別の配達網があるし、それを活用して‥‥」などというアイデアとは全く相容れない現実がそこにはあるのだ。
たとえ5円が新聞配達所に入ったとしても、甥っ子にとってはイレギュラーな労働を強いられ、レギュラーガソリンを浪費したに過ぎないのである。ガソリン代が自費では、あまりに無慈悲。
これでは憤慨するのも当然だ。


中間大衆というものが消滅して、「労働」が、巨大システムを操る側のエリート層と、そのシステムの影でコキ使われる奴隷労働層に完全に二分されてしまった。
そして現代社会では、コキ使われる側は、そこから脱出するすべがないのである。
すべてが「自己責任」で片付けられてしまうのである。


僕は、去年の7月1日から11月15日まで、深夜にパチンコ店の清掃作業に行っていた。
「アミューズメント施設の清掃」と求人には書かれていたので、「何かな?」と思って行ったら、パチンコ屋だった。
往復の時間や待ち時間を含めれば、労働時間は約3時間。これで一日2200円の収入になる。えーと、3で割ると733円か。
15人のチームで行うのだが、驚いたことに、自分がいちばんの年寄りだった。あちゃー。
ほとんどが学生さん。あとはダブルワークの主婦、給料安くて困っている介護士の人、不況で仕事が減ったプロの清掃員なんて人も来ていたな。まったく社会の縮図だね。


はじめ自分は「通用するのかな?」と不安だったが、仕事自体は問題なくこなせた。
ただ、昼夜逆転で時差ボケ状態になり、そのうちウンコが出なくなり、胃痛になってしまった。
病院へ行って「ウサギのウンコのような‥‥」と言うと、医者に、
「ああ、兎糞ね」と言われ、それがトフン状というのだと知った。
そこで癌が疑われ、胃カメラの検査を受けることになり、こっちはギャフン!であった。
けっきょく病院代が高くつき、なんのためにアルバイトに行ったのか解らなくなってしまった。

仕事は過酷だとは思わなかったが「こんなもんなんだろうな」と思った。
僕らが台を清掃していると、店員さんが台の横についたボックスから、一万円札をテキパキと回収していく。
その手許の厚みが、20センチくらいになっている。いったいいくらになるんでしょうかねぇ。
これじゃあ、石原東京都知事も怒るわけだよ。
日本全国で福島原発一基分の電力を消費して、30兆円を超す金を吸い上げていく。その金が社会に回ればもっと経済が活性化するだろうに。


僕がキツいと思ったのは、ワークではなく、精神的なイジメ。
清掃会社の社員が、恫喝でアルバイトをコントロールしようとするのね。
アメとムチじゃなくて、無智とムチ。ムチばっかり。ピシピシッ!
彼らもまだ若いから、人の使い方を学習中なんだろうけど、アルバイトに向かって「お前らのことなんか、どうなろうと知ったこっちゃねぇ」などと言うのは、いかがなものか、と思いましたネ。


アルバイトをやめたのは、体調を崩したこともあるけど、きっかけは僕が作業中、備品の灰皿を割ってしまったこと。
清掃会社の上司という人間まで出て来て(僕より若いのよ (・・。)ゞ )
「二度とやるな! 次があると思うなよ!」
と言うから、
「二度とやりませんなんて約束できません。形あるものは必ず壊れるし、それにたかが灰皿じゃないか」
と、反抗して(尾崎豊の気分だったナ)クビになった。


後でそのことを友達に言ったら、
「お前、そんなのはハイハイって言っとけばいいんだよ。ケリ入れられなかっただけ、ラッキーだと思いな」
と言われた。
この友達は、若いころ飲食店でアルバイトして、先輩に反抗してボコボコにされたそうである。


だけど僕が清掃作業中よく解んなかったのは、営業時間が終わっても、照明や台の電源は入れっぱなしだし、館内に歌をエンドレスで流し続けていること。
そうしなくちゃいけないんでしょうかねぇ?
省エネしなきゃダメだって。ほんとにねえ。


エンドレスで2時間、同じ歌を大音量で聴き続けるって辛いもんだよー。
拷問だよ。
おかげで、kinki kidsの『フラワー』の歌詞、覚えちまったじゃねぇか。


♫ 僕らは愛の花咲かそうよ 苦しいことばっかりじゃないから
  こんなにがんばってる君がいる かなわない夢はないんだ
  (JASRAC不認可)
パソコンをやっていたら何やら膝の外側に違和感。
テーブルの下から足を出してみると、体長6センチほどのゴキブリが乗っかっている。
「ギエーーッ」
慌てて振りほどこうとすると、チクッと痛みが。
その後、パタパタと飛びながら床に落ちたゴキブリを、近くに在った雑誌で、
「コノヤロ、コノヤロ」
と、ぶったたいた。


四日後、その後に水泡が出来てる。
殺生の祟りか?
水泡を手で潰すと汁がダラーっと。
痛えーなー。まだヒリヒリする。
ゴキブリ様、侮れませんな。


ゴキブリに齧られた

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imanari munekazu

Author:imanari munekazu
このコーナーでは、時事の話題に触れながら、意見、雑感等を不定期に発信してまいります。

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