LOTUS STUDIO BLOG
これから何が起こるか。我々は何をすればよいのか。
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
気づきの啓示板』という他のブログをやりはじめ、それを書くだけで手一杯になってしまい、こちらがだんだん疎かになってしまいました。その間、自分の心境も随分と変化したために、こちらをお休みすることにしました。

世の中に蔓延する不幸や矛盾、その原因を知りたいと考えるようになり、苦手だった経済や政治の世界を探求してみました。その結果、現代の政治が金融を支配する人々によって動かされていることを知りました。

「金融サギ」という言葉がありますが、最初は私も、これは金融をネタにしたサギ師の話だと思っていました。しかし追求していくと、そうではなくて「金融」そのものがサギ的システムで出来上がっていることが解りました。

そのいちばん端的な例が「信用創造」という言葉です。言葉はいいですが、その実体は「思い込みの創造」です。実体がないものを「信用」の名のもとにどんどん膨らませて行く仕組みです。

しかもその「思い込み」の方が、「実体」よりもはるかに巨大になってしまい、国も人々もみなその奴隷になっています。ひとこと「これは虚構なんだ」と上にいる人が言えば済むのですが、それを言ったら「信用」という言葉で成り立たせてきた経済の仕組みが崩壊してしまうので、それを誰も言えません。

そのため、金融界も、政治家も、マスコミも、虚構を伝え続けていくしかなくなっています。しかしそのアンバランスが、あまりにもひどくなって来たために、世界各地で経済をめぐる混乱が連鎖的に沸き起こってきているのです。

病気で言えば、内臓の調子が狂い体中に発疹が出てきたような状態です。それを、軟膏を塗ってごまかしているわけですね。その間に、内臓はどんどん機能不全を広げているのに、それに気がつかないふりをして「まだ行ける、まだ行ける」とやっている。

それがごく一部の、闇の支配者の指令によるものだと言うことを知りました。世界はそういう人たちによって動かされている。その事実を知ることはとても重要だと思います。しかしだからと言って、その抵抗に闘争心を燃やしても、どうなるものでもありません。

福島原発の事故で、この闇の一端が解ったし、国がどういう対応をするか、企業はどういう対応をするか、マスコミはどういう対応をするかということも解りました。一方、一般民衆がどういう扱いを受け、どうやって事件そのものが忘れ去られていくかも解りました。

そういうことが解っても、選挙では、原発推進、TPP推進、アメリカとの同盟強化を打ち出している自民党を、前に民主党に振った振り子の揺り戻しというだけで、国民は再び選んでしまうのですから、もうどうにもなりません。政治と大衆との関係というのは、所詮そういうものなのでしょうか。

そうして、どうにも我慢が出来なくなったときに、やっとクーデターや革命が起きるのでしょう。これも病気で言えば、生活習慣病と同じですね。死ぬ一歩手前というところまで行かないと、人は生活習慣の見直しなどしない。

世の中に蔓延する不幸や矛盾の責を、すべて「闇の支配者」に向けることは簡単ですが、どうもそればかりではない。人はもともとそういう「闇」にシンクロしてしまう、喜んで喝采をあげてしまう心を持っている。そこを突かれて利用されてしまうのですね。

ですから、その心の方が改まっていかない限り、世の矛盾は解決しない。たとえクーデターや革命を起こしても、それは一時的なもので、体質はなにも変わらないんです。だとしたら、心の体質改善の方に目を向けた方がいいと思いました。

それはクーデターや革命のような目立った変化は感じられないでしょうし、影響も微々たるものでしかないかも知れません。しかしだとしても、それがいちばん重要だし大切なことなんだ、という心境に過去一年で達しました。

ということで、このブログはおしまいにさせていただきます。
今までアクセスして下さった方々、どうもありがとうございました。

●参考に
http://www.webdice.jp/dice/detail/3485/
スポンサーサイト
お笑い芸人によって、「イジる」という言葉が一般化しました。がしかし、これは「芸」なのでしょうか?
落語にしろ漫才にしろ講談にしろ、今テレビで「芸」を見ることはほとんどできません。レベルが落ちたなぁ、と思います。これでは芸人ではなくて、下~人です。赤塚不二夫さんが生きておられたら、さぞや嘆かれたことでしょう。

昔は「芸」を競っていました。「芸」というのは、客も教養がないと面白くはない。どこが面白いのかさっぱり解らないものです。芸人と客の関係は、そのように切磋琢磨しながら育っていきました。

でも今じゃ「よってくだんの如し」と言ったところで、なんのことか全然解らない。落語のサゲがサゲにならない。サゲの妙に「なるほど、上手い!」って膝を叩けない。(「膝を叩く」ってのもたぶん死語かナ?)
それに比べれば「イジる」は誰にでもすぐに解るわけですね。

これにはテレビの事情が絡んでいます。安い制作費で視聴率を稼げる番組を作らないと、スポンサーが集まらない。そこで一山いくらで大勢を確保出来る吉本タレントを使い、安易に番組を作る。精妙な台本なんてものも工夫しなくていい。イジられ役をひとり設定して、周囲がよってたかってイジれば、それで番組ができちゃうんだから。

「イジる」というのは、「弄る」(つまりもてあぞぶ)から来た言葉だと思いますが、「イジめ」を連想させませんか? こういうことが堂々と「OK」なんだと子供たちに刷り込んだら、大変なことになると思うんです。イジられ役のタレントというのはそれがキャラクターであって、そうすることでお金を貰っている人です。でも子供はそうじゃない。

あ、そうそう。小松政夫さんは子供のころ教室で先生から叩かれると、「イテーな、イテーな、イテぇーなー」とギャグにして周囲を笑わせていたそうです。でもそんな技が瞬間的にできるのは、天性の素質があったからでしょう。イジられて「へへへ」と笑いとばせる子もいれば、そうでない子もいる筈です。(私も、パンツ脱がされたり、さんざんされたなぁ)

お笑い芸人の方も、そういう影響まで考えて欲しいと思うんですよ。
芸人なら、どうか「芸」を磨いてくださいまし。
2月12日、ローマ法王ベネディクト16世(Benedict XVI)が退位するというニュースが、世界中を駆け巡りました。ローマ方法は生涯を全うするまでその地位に留まるのが通例なのですが、途中での退位は実に600年ぶりのことだそうです。


昨年暮れからのバチカンの動静はあるていど知っていましたので、「へえ、ついにそういう日が来たのか」という感じです。


キリスト教、なかでもカソリックに縁の薄い我々日本人からすればどうでもいいことのように思えるかもしれません。がしかし、今後の世界状勢を考えれば、今回の事件は極めて重大な意味を持っています。


私は、民放テレビも新聞も雑誌も見なくなったので、ニュースがどういう伝え方をしているのかは知らないのですが、BSのワールドニュースを見た限りでは「健康上の理由」と言っていました。


しかしもちろんそんなことはありません。いかに健康が悪かろうが、死ぬまで務めるのがローマ法王という職責なのですから。
今回のベネディクト16世の退位に際しては、バチカン内部で激しい暗闘が繰り広げられていたようです。


バチカンの中枢が、マフィアに汚染されていること、世界征服を企むイルミナティが深く入り込んでいること、はその道を知る者に取っては周知の事実でしたが、それがいよいよ表に出て来るようになったということです。


近年、バチカンはさまざまなスキャンダルに見舞われていました。その代表格は、バチカン市国といういわば治外法権を利用したマネーロンダリング疑惑と、未成年者に対する性的虐待問題でした。


後者に関しては、私の大好きな映画監督ペドロ・アルモドバルが『バッド・エデュケーション』(訳すと「いけない教え」かな?)という秀作を生み出しているので、ご覧になった方もおられるでしょう。要は、神学校や信者の男の子を聖職者が自分の慰み者にしてしまうという問題です。


また前者に関しては、バチカンへの不正資金の流入が止まり、バチカンが資金難に陥るとともに、現在、旅行者のクレジットカード使用もできなくなっているそうです。こうした問題が、内部告発者によって、昨年来からどんどん表に出て来るようになったのです。この1月にも大量の秘密文書が漏洩されたそうで、ついにベネディクト16世が退位に追い込まれたということです。


ベネディクト16世の退位が、不正を正そうとする者の勝利なのか、はたまた逆の現状維持派による追い落としなのかは解りません。
ただ、2000年続いたキリスト教の歴史に亀裂が入ったことだけは間違いないでしょう。これは、単に宗教の問題だけに留まるのではありません。


大航海時代以来、世界は欧米の支配下にあります。そしてその背景にはキリスト教があった。今回の事件は、この支配構造が崩れ出した「象徴」的事件とみて間違いないことでしょう。
これも、水瓶座の時代に移行したということの、大きな現れなのかも知れません。


キリスト教と欧米文明が世界を支配した2000年間は、魚座の時代でした。魚座は「双魚宮」と言い、2匹の魚で描かれます。つまり二元対立、二項対立の時代です。主体と客体、善と悪、天使と悪魔、支配者と被支配者、富者と貧者、主人と奴隷、勝者と敗者、西洋と東洋、etc.


私たちは日々、マスコミや教師、親を通じてこのような二元対立、二項対立の図式を子供のころから叩き込まれます。そして、勝たなければいけないんだ、成功しなければいけないんだ、という洗脳教育を信じ込み、強い者は他者をいじめ、弱い者は精神を病む。そのような極端な時代に突入しているのです。


しかし、それがもう限界に来ている。「双魚宮」の時代の終わりと、バチカンの権威の崩壊は、そのことを示唆していると思います。
女子柔道のナショナルチームで起きた暴力問題や、大阪市立桜宮高校の体罰自殺問題など、このところスポーツ現場での「暴力」事件が、マスコミで相次いで取り上げられていますね。こうした事件はたぶん氷山の一角で、表に出ない出来事がきっとたくさんあるのだと思います。


俗にいう「体育会」系。そこには何か「体で勝負」のようなニュアンスがありますよね。私はヘナチョコですから、こういうのは苦手です。
しかしハッキリ言って、事件を起こした人たちは指導者不適格人間だったと思います。


スポーツに知性や人格が要らない時代はとっくのとうに終わっています。今やどんな分野でも知性がなければ勝てないし、人格がよくなければチームプレイなどできません。スポーツの場で「暴力」沙汰が後を断たないのであれば、そうした気づきのない「甘え」の中にまだ居るということなのでしょう。


東京オリンピックの時の全日本女子バレーボールチーム監督であった故大松博文さんは「鬼の大松」と呼ばれ、激しいスパルタ式トレーニングを行ったことで知られています。ところがこの時の選手たちは、誰ひとり大松監督を悪く言う人はいないんですね。それどころか、みんな恋心に似た気持ちを監督に対して抱いていたというのです。いったい何がどう違ったのでしょう。


「体罰」問題が起こると、いつも「体罰は是か非か」といった取り上げられかたがされるのですが、私はこれは本質を欠いた議論だと思います。
問題は「体罰」の有無や是非じゃない。人格を尊重しているかどうかです。


親と子、教師と生徒、コーチと選手、師匠と弟子、親分と子分、上司と部下、経営者と労働者。世の中にはさまざまな力関係が存在しています。
その時に、力のある側がその立場を笠に着て、弱い者いじめをしてはならないということです。


これは道徳を超えた問題です。絶対にやってはなりません。上下の立場を利用して人格否定を行った場合には、相手の心に深い傷を負わせてしまうのです。この傷はちょっとやそっとでは解消されません。もし立場が逆転したときには、復讐がもたらされるかも知れません。


「鬼の大松」の故大松博文さんは、選手をどんなにスパルタでしごいても、きっと選手の人格は尊重していたんだと思います。
「老老介護」や「少子高齢化」といった現代問題を映すキーワード。私たちは、ある概念を伝えるためにそうした言葉を作り、会話や文章で流通させています。


しかし一方で、そのようにキーワードで一括りにしたために、その言葉を聞いただけで何か解ったような気になって、そこから多くのものがこぼれ落ちていることにはなかなか気づきにくいようです。


「老老介護」も、いま実際にその問題に直面している人と、そうでない人とでは、解釈にもの凄い温度差があるのではないでしょうか?


人は、自分自身の問題とならない限りなにかに注意を向けませんので、致し方ないことではあります。しかし「少子高齢化」という人口の逆ピラミッド化が急速に進行していることは疑いようもなく、「老老介護」問題はいずれ誰しもが直面しなければならない差し迫った課題となっています。


こうした問題の解決手段として「介護サービス」というキーワードもあるのですが、これもまた実態をマスキングするように働いている部分があることは否めません。
「介護サービス」は必要です。しかし「サービス」の部分が、私にはどうしても引っ掛かるのです。


「サービス」という言葉にはいったい何が含まれているのか?
一つにはサービスメニューの提供と、それへの対価という面でしょう。つまりビジネスです。ビジネスですから競争があり、客は各機関が提供するサービスの優劣を比較する。
一方、運営する方はビジネスを成功させるために、効率化、集約化を進める。結果として「介護サービス」が、なにか居酒屋チェーンのような格好になって行っています。


私はこれを危惧します。「介護」は、けっして技術と労働対価だけでできるものではありません。どうしても「愛」が必要になってくる。ところが経営が大規模化したり、投資家が入り込んで来たときに、その「愛」の部分をちゃんと見ることができるのでしょうか? 現状では「愛」の部分は、個人的な資質にただオンブしているように思われて仕方ありません。


そうしますと、「愛」はババ抜きのようなもので、金で買えばよい、引き受け手がいなければ外国人に頼めばよい、とそのようになってはいないでしょうか?


そこで私の提案です。「介護」という問題に直面したときに「介護サービス」ではなく、真っ先に「介護チャレンジ」と「介護愛」というキーワードを思い浮かべてはどうでしょう?


人が成長を本当に実感できるのは、世間で言うような「社会的な成功」といったことではなくて、実は「当たり前のことが当たり前にできるようになること」にあります。
地位、名誉、財産は関係がありません。「当たり前のことが当たり前にできる人」ほど凄い人はいない。しかし若いときにはこれが解らないわけです。


それが、ある程度の年齢に達し、自分も「介護」や「看護」をしなければならなくなったときにどう考えるか?
「困ったな」「イヤだな」ではなくて、自分を成長させてくれる「介護チャレンジ」の瞬間が来た。よし「介護愛」という未達の課題を自分の中に育もう。しっかりとマスターして、やりぬいて、自分を成長させてやるぞ。一つそのように思いたいわけです。

プロフィール

imanari munekazu

Author:imanari munekazu
このコーナーでは、時事の話題に触れながら、意見、雑感等を不定期に発信してまいります。

リンク

最新記事

カテゴリ

月別アーカイブ

検索フォーム

RSSリンクの表示

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。